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HARU~漲る(ミナギル)~

(約1ヶ月ぶりの更新です☆4月に入り、私生活においての環境がガラっと変わった関係もあり、
(それに伴う忙しさを理由に)しばらくブログの更新が滞っておりましたが、ここで元気に再開したいと思います。)

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最近、朝の目覚めがものすごくいい。

寝てる間に、明日1日を過ごすためのエネルギーが

体中に満ち溢れると同時に自然と目が覚めるような感覚だ。

(そんな日は携帯電話のアラームよりも、決まって10分ほど前に目が覚めます。)

エネルギーチャージ完了!まさしく”力漲(みなぎ)る朝”といったところ。

そのようなパワフルな目覚めは、今日1日、やることなすこと全てがうまくいくような、

そんな楽しい予感さえ全身で感じさせてくれる。

だから、1日の始まりとしては、このうえない最高の始まりなのだ。

ひょっとしたらこれは、外の気温が高くなってきた事とも関係していると思われる。

暖かくなってきたことによって、体中の血行・血流が良くなり、前日の疲れが十分に取れ、

それが朝の良い目覚めへと繋がっているのだと。

自分は決して冷え性だとかそういうわけではないのだが、

この血行・血流というもの、侮ってはならないような気がする。

なぜなら、自分の内から力が漲ってくるようなこの感覚は、

血流などときわめて密接な関係にあるような気がするからだ。

ちなみに「漲る」とは、力が漲るだとか、自信が漲るといったように

力や感情などが溢れんばかりにいっぱいになる事を意味するが、

それとは別に、水が満ち溢れる様子や水勢が盛んであるといったことも意味する。

そのような意味から「漲る」という言葉は、春を象徴する言葉としてもよく用いられるのだ。

例えば、春になり植物や動物たちが活動し始める姿を見て、「漲る春」として表現したり、

雪解け水が溢れんばかりに川面いっぱいに流れる様子から、そこに「漲る」姿を見いだし、

そしてまた、その雪解け水は春の到来を告げるものであることから、

まさしくそれらを「漲る春」と表現していたりする。

そこでふと思うのだが、もしかしたら、体内をめぐる血流にも漲る春と同じような事が、

当てはまるのではないだろうか?

つまり、血液が体内を勢いよく循環する事で、そこに文字通り「漲る」という感覚そのものを

体の内から感じ取る事が出来るのだという事。

そして、勢いよく流れる雪解け水が、我々に「漲る春」の到来を告げるように、

同じく体内に勢いよく流れる血潮も、我に”何か”を告げているのではないだろうか・・・という事。

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ちなみに「春」の語源を調べてみる。諸説あるが、日本文化いろは辞典によれば、

●「万物が発〔は〕る(発する)」
●「木の芽が張〔は〕る」
●「天候が晴〔は〕る」
●「田畑を墾〔は〕る」

などが主な語源とされているそうで、

これらは天候に恵まれ、希望に溢れる季節を象徴しているのだという。

一説には、木の芽が張るの「張る」が春の語源として有力なのだそうだ。

へぇ~なるほど、と思った。

木の芽が「張る」に水を表すさんずいで「漲る」・・・か。

やはり、「漲る」と「春」はともに相性のよい言葉なのだ。
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さて、暦のうえでは、すでに夏の到来を匂わす”立夏”を迎えたようであるが、

どうやら自分の体の中にも、自然界と同じくして春の季節が訪れたと言っていいようである。

先ほどの”体内を勢いよく流れる血潮は、我に何かを伝えているのでは・・・・”とは、

まさしく”我に漲る春の到来を告げている”のであろう。

雪が解けて水へと変化し川面を勢いよく流れ出す様が、漲る春そのものであるように

血液が体内を勢いよく駆け巡ることによって生じる「漲る」という感覚が、

我の内にも「漲る春」の訪れを告げているのだ。

ならば、自然界と同じように万物が生じるほどの爆発的な出来事が、

自分の内部または内面において、同様に起こるということなのだろうか。

もしそうであるならば、想像してみれば分かるが、生き物たちが目を覚まし躍動しだすのも、

植物たちがいっせいに芽吹くのも、それら万物が生じる希望の始まりには、

それぞれに爆発的なエネルギーが内包されているはずなのだ。

したがって当然のことながら、そのような事が自分の内部にも起こるとするならば、

それに見合うだけの爆発的なエネルギーが、自分の内にも宿っていなければならないことになる。

だが、そんな大それたエネルギーなんてものを持っているんだろうか?

持っていないのなら、それは春ではないのだろうか。

植物や昆虫たちに聞いてみるか?

彼らはきっと、こう言うだろう。

「漲れば春なのだ」と。

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「漲る」感覚そのものが、春そのものなのであり、

万物を生じさせる爆発的エネルギーそのものなのだ。

朝の目覚め、何か漲る感覚、沸き起こるチカラ・・・・

すでに我の内には爆発的なエネルギーが内包されているのである。

それはすなわち、自分の内部に到来した春であるのだ。

チカラ漲る朝の目覚めは、あらゆる創造の発する可能性を秘めた希望溢れる目覚めであり

新しき思考、新しき視点の芽が張る目覚め、気分はどこまでも晴れ渡り、視界もよく、

今日の人生をたくましく墾る為の目覚めであるのだ。

準備は出来ている。

春は春の間でしか春ではいられない。

今、このエネルギーは明日の為のエネルギーなんかではないのだ。

ならば、その漲る力をいかに放出するか。

小さくまとまるのはもったいない。

どうせなら自然界と同じく、万物が発するぐらいのスケールで春に挑みたい。
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ぱらだい虫、ふと?

ART;「虹の覚醒」 ~mixed media on digital~
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君の操縦席

ART:「両脇の翼、そして真ん中の本体」 mixed media on digital

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みんな翼を持っている。

折れた翼は存在しないという。

どんな人でもだ。

でも、なかなか飛べないんだ。

どうやって飛べばいいのか・・・・忘れたから。

いざ・・・・・

飛ばなきゃならない時、

飛べる気がしない。


翼を羽ばたかせる方法は

一人一人違うのかもしれない。

でも翼を動かそうとする場所は、

みんな一緒のところにある。
個人製作_0321_09_al.jpg

それは、自分の真ん中。

真ん中はみんなが持っている。

ズレた真ん中なんか存在しない。

真ん中はビクともしない

動かない。

動かないところが

翼を動かすんだ。

ただ・・・・・

肝心の君は

いつも動いてばかりで

そこにいないんだよ。
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生きているから

ART;「心臓ポンプ」 mixed media on digital

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生きているから命があるんだよ。

命があるから生きているわけじゃないんだ。

命は生きている間に

使うからあるんだ。

いずれはなくなってしまうものだけど

生きているからなくなるんだ。

そういうもんなんだ。

命を使うという事を

それを惜しく思うのは

生きていながら

命を大事にしまっておいたり

自分の命の使い道に困り

手持ち無沙汰に命を預けても

幸せという利子は期待できないと

嘆くためだけに命を使うからだ。

生きているから命があるんだ。0313_01c.jpg

だから命を使うんだ。

使うと重さを知るもんさ。

全ての命の重さを・・・・

自分が生きていることの重大さを

だから大事に使い果たすんだ。


命があるから生きているんじゃないんだよ。

そんなのは

生きている自分に失礼じゃないか。


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「穴の覗き方(後編~)」

(~前回の続き)
一本の大木の周りに出来た、
セミの幼虫の抜け穴一つ一つに
プレートを挿し込んでいった。
だが、すでに埋まりかけているものや
それの穴かどうか、
判別のつかないようなものは別にして、
僕は、全ての穴にプレートを挿し終えた。

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     ・・・「⑤大地に瞬く」

それは昨年の9月末の事である。
この時期になると、夏の主役の一つであるセミ達も、
さすがに姿を消してしまっていた。
とは言っても、まだまだ夏を思わせるような
鋭い日差しが、粘り強く残っていた。
それが、地上のあらゆるものを照射し、
その照り返しが、プレートの一本一本を輝かせる。
その光景は、幻想的であり、
なんとも不思議な雰囲気を醸し出していたのだ。

じっとしているだけでも体力が奪われそうなくらい
クラクラするような日差しの下ではあるが、
そんな幻想的な風景を見てると、
暑さは少しも気にならない。気にならないどころか、
僕の心をユラユラと心地よく漂わせてくれるような
そんな浮遊感さえ感じさせてくれる。
だから僕は、そんな目の前の風景に
つい見いってしまったのだ。
ランダムに点在する一つ一つの白いプレートは、
無邪気に舞い踊る大地の妖精のようでもある。
気のせいか、そんな妖精たちが僕に向かって、
一緒にダンスを踊ろう!と誘ってくれているような気がした。
僕は、彼等の無邪気な誘いに心が奪われた。

そして、奪われるままに、
彼らと一緒に夢中でダンスを踊ったんだ。
僕は踊りながら、その幻想的な風景の中で
いろんなものを見た。
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          ・
          ・
          ・
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~目の前のプレートたちが、見たこともないような
白いキノコの群生のようにも思える。
もしかしたら、目で触れただけでトリップしてしまうような
そんな幻覚キノコだったりして。
それとも夏の間、とうに死んでしまったセミ達の墓標かな・・・?
どことなくそれに似た神聖な雰囲気も感じさせる・・・・。
そう言えば、”死ぬと星になる”とは、誰かが言ってたっけ。
星かぁ・・・・。
セミだって死んじゃうんだもんな。
星になったっていいのかもしれないな。
・・・って事は、あれは、セミ一匹一匹が生きた証しの
白く輝く星たちなんだな。
だから僕は、宇宙遊泳さながらに
間近でその星たちを眺めているようなものなんだ。

~そうやって僕は、大地に瞬く無数の白い星たちを前にして、
そこから垣間見える壮大な宇宙を
いつの間にやら想い始めていたんだ。

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     ・・・「⑥網の目の中の命」

1本の大木を中心とした銀河系に散りばめられた無数の星たち。
その星一つ一つが、セミたちの生きた証し。
同時にそれは、その銀河系のもとで、
延々と繰り返されてきた、またはこれからも繰り返していくであろう
セミの繁栄という営みの証しでもある。
なぜなら、この一つ一つの星は、
セミがセミという生き物を全うした証しだからだ。
セミを全うするとは、自分たちの繁栄の営みの1ページを
1匹1匹が担うという事。
卵から孵った幼虫は地中ですごし、時が来れば地上へ出て羽をのばす。
やがてオスとメスが交尾をして卵を産む。
その卵から孵った幼虫は地中で過ごし・・・・
といった具合に”セミという生き物”の繁栄への営み、
果て無き循環である。

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つまり、その果て無き循環を思えば、
目の前には、過去も現在も未来も含めたセミという営みの
時空を超えた大きな循環の断片が、穴と言う形で現れているとも言えるだろう。
単に今年できた穴、来年できる穴といった具合に
分断的に捉えられるようなものではないのだ。
その年のセミがセミとして命を全うすることで、
昔からずっとセミをやってこれたし、
これからも、ずっとセミをやっていく事に繋がる。
つまり、過去も現在も未来も繋がっている穴なのだ。

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だが、セミを全うするというのは、
親になり、無事に卵を産むことだけを言うのだろうか?
そんな視点で見てしまうと、地中の外敵に食べられてしまう者や
病気になって死ぬ者、
親になっても鳥たちに食べられたりしてしまう者、
また、卵を産まずして死ぬ者が必ずいるが、
それらのセミ達が、いかにも繁栄の営みから脱落してしまったかのような
落ちこぼれのセミのようにも思えてしまう。
だが、それは落ちこぼれなんかではなく、
実は、それもまたセミが繁栄していく上での
大切な命の全うでもあるのだ。
繁栄とは、決してセミだけが生き残ることを意味しない。
セミがエサにする木の樹液も、木という生き物の繁栄なくしてはありえない。
逆にセミをエサとする鳥や昆虫といった、自分たちの外敵も含め、
あらゆる生物の繁栄をも含めたところのセミの繁栄なのだ。
つまり、セミもまた、いわゆる食物連鎖の中の一翼を担う存在であり、
その輪から分離して、単独での繁栄の営みを考えることは出来ないのである。

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さて、その食物連鎖であるが、それがどのような仕組みになっているのかについて、
学生の頃に教科書で見た、ピラミッド型で表した食物連鎖の図を思い出す人は多いだろう。
だが、近年の食物連鎖の概念は、簡単なピラミッド型の概念ではなく、
もっと込み入った、とても複雑な”網の目の構造”として捉えられているのだ。
今までの食う側と食われる側といった単純で直線的な概念は、
それとそっくりな形で、未だに人間社会に根強く残るが、
その概念のもとでの我々の暮らしは、いずれ破綻が来ると僕は思っている。
ここでは、それらの事に関して、細かくは言及しないが、
セミもまた、そういった網の目の構造を持った複雑な秩序の下で、
自分たちが繁栄していく事の様々な意味を持って存在し、
またそれの下で生かされているのである。
このように、食物連鎖という大きな視点で見れば、
子孫を残せずに死んでいったセミがいたとしても、
それは、生き物全体の繁栄にとっての大事な命だったのであり、
セミという生き物を全うした、もう一つの姿であるという事が、
おのずと見えてくるのではないだろうか?
そこには、授かった命に優劣もなければ、
無駄な命は一つとしてないのである。

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     ・・・「⑦網の目の辿る先」

このようにして、目の前の穴は、セミ一匹一匹の命の全うの証しであり、
それは同時に、セミの繁栄へと通じており、
更にはそれが、生き物全体の繁栄の営みにも通じている穴であるという事が、
おぼろげながらでも見えてきた。
生き物全体の繁栄とは、
当然、海の生き物たちをも含めた、この地球上の生物全ての繁栄をいう。
そして、それらの全体像は、複雑な網の目の構造を成しているという事だった。
つまり、生き物たちの視点で見れば、
地球は、立体的に網の目に張り巡らされた
非常に繊細な構造を持った星なのである。
セミという生き物から始まり、そこから複雑な網の目をたどって
やがて地球という立体像が見えてきたのであるが、
ちなみに、その地球が置かれている宇宙の成り立ちを
自分が知ってる限り、分かりやすく説明すると、
地球は太陽系の中にあり、太陽系は、通称”天の川”という銀河系の中にある。
宇宙には、銀河系がたくさんあって、それら銀河が寄り集まって銀河団を形成している。
そのような銀河団もまたいくつもあるのだ。
気が遠くならないうちに話を戻すが、
実は、その銀河団が形成された構造もまた、複雑な網の目状の構造となっているのだ。
その事を”宇宙の大規模構造”と呼んでいる。

冒頭で、目の前の穴を見て、
”1本の大木を中心とした銀河系に散りばめられた
無数の星たち”と表現した。
その表現は、恐らく、無意識に遠い銀河の構造を
目の前の穴に見たからかもしれない。
目の前の銀河からは、食物連鎖という網の目の構造が見て取れたが、
その網の目の構造の行き着く先は、地球をも飛び出し、
宇宙の大規模構造という、これまた複雑な網の目の構造にたどり着いた・・・
目の前の小さな銀河は、遠く果ての大きな銀河団に通じているのだ。

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     ・・・「⑧人間の存在」

ここで、ふと思うのだが、そんな風にしてあれこれと想像したりする人間自体の
存在は、どう捉えればいいのだろう?
食物連鎖の観点から言えば、人間は頂点に属しているような気もするが、
だが、そんな事ではないという事は、網の目の構造を思い出せば、
なんとなく気づくような話ではないだろうか?
そしてまた我々は皆、衣食住の全てにおいて自然の恩恵を受けているが、
だが、受けるだけでなく、それに対して何らかの役目も果たしているはずだという事も、
なんとなく自然に感じられる事ではないだろうか?
だが、残念なのは、恩恵を受けつつも、それらを破壊するような負の役目を担っている
ふしがあるということだ。

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だが、そのような姿は人間本来の役目ではないはずである。
環境問題を始めとして、それらを改善しようとする姿勢は大切な事ではあるが、
本来の役目とは、一体どのような事なのかを知る事も同じくらいに重要である。
つまり、その両方を併せ持った上で、本当の改善というものに至るのではないだろうか?
それが一体どのようなことなのかは、今の自分には考えにも及ばないが、
今後とも色々とその事を考えていかなければならないような気がする。
セミの命の全うが、果ては銀河にも通じた。
ならば、”人間という生き物の命の全う”とは一体何なのか?という事を
一刻も早く理解し、目の前の網の目に気づかなくてはならない。
セミの命の全うと同じく、人間が命を全うした時、
それは、人間の繁栄に繋がり、果ては遠く宇宙の銀河の網の目へと通じるのだ。

人はなぜ、夜空の星を見上げるのだろうか?
我々もまた、その複雑な網の目の構造の中に
紛れもなく生きているのであり、
その網の目を辿った先の、
遠い銀河を思い出しているからかもしれないし、
人間社会という小さな構造の中で、窒息してしまわないように
我々も例外なき銀河の中の一つの生命であることを確認し、
その小さな構造の中で、命の全うという名の希望を
見出そうとしているのかもしれない。
人は星に願いを投げかける生き物であるが、
その願いの本質は、一人一人の命の全うにあると思う。
もしそうであるのなら、そのような希望を見出す術は、
身近なところにもいっぱいあるような気がしてならない。

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我々人間が、目を見開いてものを見るという事の本質は、
夜空を見上げる事と同様に、そこに命の全うを見い出し
人間社会の中で、人間全ての命が、
無意味な命として埋もれてしまわぬように、
そこに希望の光を通す為の穴をこじ開けるという事でもあるのだ。
やがて多くの人間たちによって、
無数の穴をこじ開ける事が出来た時、
夜空に輝く満天の星空のごとく、
降り注ぐ光の下で
希望を見出した我々人類の
命の全うが待っている。
と同時にそれは、
地上から星に投げかけ続けた一人一人の願いが、
遠い銀河の果ての網の目にたどり着いた瞬間でもあるのだ。

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        「エピローグ」

今回、セミの穴を単にセミの穴として完結した見方をせずに、
そこから見て取れる様々な思いを
網の目のように張り巡らす事の一端を行った。
ただそれだけで、それだけのことで、
足元のちっぽけなセミの穴からでも、
うっすらと遠い宇宙が覗けたのである。
そのように宇宙を覗ける穴の存在は、
実はいたるところにあって、
自分もそうだが、日常の営みの中では、
それに気づきにくいというだけの話なのだ。
・・・とまぁ、そんな感じで、
目の前の幻想的な風景を見ていて、
様々なことを感じたわけであるが、
今の自分は、遠くの宇宙を少しだけ近くに感じた分、
気持ちが晴れ晴れとしている。
その晴れ晴れとした内面を象徴するかのように、
今、僕の目の前には、なぜだか分からないのだが、
ついさっきまで見えていた幻想的な風景ではなく、
今度は視界一面に青い空が広がっているのだ。
まだ暑さでクラクラするけれど、
さっきまでの幻想的な風景と違い、青い空もまた気持ちいい。
そして、方向感覚さえつかめないほどの
青一色のその様は、
またも僕の心を心地よくユラユラと漂わせた。
今度は青い空のど真ん中で
先ほどのダンスの続きを踊ろうかな?
そう、さっき大地の妖精たちに誘われるままに踊った
宇宙に繋がる楽しいダンスの続きだ。
今の僕には、どんなダンスだって踊れそう。
無重力空間さながら、
アクロバティックに宙返りだってできそうだよ。
もう楽しくて楽しくてしょうがない。
その勢いで僕は、思いのとおりに
生まれて初めて華麗に
宙返りを決めることに成功したんだ。
天と地を一瞬で制覇した気分だ。
なんて気持ちがいいんだろ。
と、そんな心地よさに浸っていると
青い視界の端っこの方から、
突如、大きな人間の顔が、現れたのだ。

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でも、不思議とビックリはしなかった。
なんだか見覚えのあるような顔だったからだ。
あれ?さっき散歩してた人?
なぁんだ、まだ見てたんだ。
僕の宙返り、そんなにスゴかった?
もう一回やって見せましょうか・・・・。


どうやらその顔が、
僕の顔をとても心配そうに覗き込む顔だという事に
うすうす感づいたのは、
2度目の宙返りを派手にキメテやろうと思った時だった。
あれ?体が重いな・・・・

・・・・一体いつからなのだろうか?

どうやら僕は、暑さで倒れていたらしい。
よく見ると、自分の両手には、
全ての穴に挿し終えたはずのプレートの束が、
まだしっかりと握り締められていた。


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「穴の覗き方(前編~)」

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(宇宙を感じるのは、なにも空を見上げた先にある太陽や
夜空に輝く無数の星を見た時だけに限らない。
自分が立っている足元を見下ろした先のずっと先、
下方に地球を貫いて、反対側の空に顔を出し、
ついには宇宙へと辿り着いた時、
上を見ても下を見ても、
思いの先にあるのは同じ宇宙であるという事が分かる。)

     ・・・「①引力」

昨年の9月末、
ある1本の大木のもとに、人差し指ぐらいの大きさの
小さな穴が地面に開いているのを見かけた。
その穴は、セミの幼虫が羽化をするために大地に顔を出した時にできた穴である。
「おっ、あそこにも穴が開いてるな。」
「あれ、ここにも穴が・・・・。」
気づくと、あっちにも、こっちにも、穴が開いている。
どうやら、この大木を中心とした周りの地面には、
とてもひと目に捉えきれないほどの
無数の穴が開いているようだった・・・。

「こりゃ、大変だ!」(一体何が?)
「こんなに穴が開いてたら・・・・地面が陥没してしまう!」(・・・ほ、ほんとかよぉ~)
僕は、一刻も早くその場から立ち去らなきゃ!と思った。
出来るだけ大地を刺激させぬよう、息を殺し、ゆっくりゆっくりと後ずさりをし、
何事もなかったかのようにその場から離れようとした。

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だが、しかし、そこらじゅうに開いたその穴たちの存在は、
目には見えない引力のようなもので、こともあろうか、逃げようとするその僕を
強引に引き戻そうとするではあるまいか!
これはまずい!と思いながらも、目の前に映る穴たちの存在を見て、あることに気づいた。
僕を引っ張るその引力みたいなものの正体に気づいてしまったのだ。
実に魅惑的なのだ。その穴たちが・・・・。
そうやって僕は、先ほどまでの陥没の危機などどこ吹く風、
いつの間にか、そのランダムに散りばめられた穴たちの魅力に
完全に釘付けにされてしまったわけである。

・・・とかなんとか言っちゃって、穴の魅力が引き止めただの何だのと言いいながら、
実は、陥没の危機に恐れおののいて、
足腰が立たなくなって動けなくなってしまっただけなんじゃないの?
と言われれば・・・そんな気もする。

     ・・・「②完結という小さな落とし穴」

・・・とまぁ、白昼の妄想劇はこれくらいにして、
僕は、大木の周りをぐるぐると回りながら、その穴たちを眺めてみた。
一通り眺めると、”この穴たちの全体像をどうにか把握できないか?”と思った。
なぜそう思ったのかというと、その穴たちがどのような分布の仕方で
点在しているのかをまず大きな視点で見てみたいと思ったからである。
自分と言う視野の小さな視点で、単に穴を穴として見るだけでは、
自分は自分、穴は穴として完結してしまう恐れがある。
それなら「穴」とは何かを大人しく辞書で調べればいいだけの話で
僕は、そんな事になんら興味も感じていなかったし、
自分にとってそれは、気をつけなくてはならない事の一つでもあった。
僕が、知った気になるのは、辞書を引いた時の指の感触と
調べた内容の言葉が放り込まれる一時的な記憶の格納庫、
ちょっと知的な事をしたなという満足感と
その満足感の中で淹れたてのコーヒーを飲む至福のひととき・・・・である。
そんな感じで僕は、すぐいい気に浸ってしまう。
だが、そこで何もかも完結してはならない。
その先があるからだ。
この場合の「穴」という言葉を、例の”知った気の範囲”でしか把握していないのならば、
その知識は、自分の中で瀕死の状態で孤立してるも同然である。
そしてそれは、とても不自然な状態でもあるのだ。

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それはまるで、種から発芽した小さな芽が、いたずらにいつまでも大地に根を張らず、
養分が得られないでいる状態とも言えよう。
そういうものは、やがて枯れてしまうのである。
それと同様に、その「穴」という知識もまた、
そこから派生するはずの、まるで生き物のようなシナプスが、
縦横無尽に張り巡らされ、別の何かと結びつこうとする事がなければ、
「穴」という言葉もろとも、遠い記憶のならくの底に落ちていき
死んだ知識として枯れていってしまうのである。
唯一、種と違うのは、取り入れた知識自体が、自力で根を生やすことができないという点だ。
つまり、自分自身が、その知識のシナプスを張り巡らす事をしてやらないとならないのだ。

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それらのような事が、いかに大切な事であるかは、
目の前の自然界の成り立ちを見る事でも、すぐに分かる。
この世には、単独で存在しえるものや、断片的な出来事、
孤立した存在などはどこをどう見ても見あたらないように思う。
言い方を変えれば、この世の存在、事象の全ては、何らかの形で繋がり合っているとも言えよう。
それなのに目の前の対象を断片的に切り取って、それで知った気になるのは
どう見てもおかしく、不自然な事なのだ。
今回、自分は紛れもなく、目の前の穴に関心を寄せている。
ならば、自然界に存在するその「穴」もまた、単独で存在しているものでないのなら、
他の何かとの事象と密接につながり合った存在であるということを
常に念頭に入れなければならない。
それによって、自分の中にある一つの知識が、
まるで自然界の成り立ちさながら、
あらゆる方向にシナプスを張り巡らす複合的な知識に生まれ変わると思っている。
そしてまた、一つの知識から派生する根(シナプス)が張り巡らされていないような地盤は、
極めて軟弱である。
軟弱がゆえに陥没する恐れもあるのだ。
その恐れは、陥没してできた穴に、単体の知識が飲み込まれてしまう危険性も含んでいる。
ようは、覚えたことを忘れてしまう・・・という事なのだ。
僕の中では、”忘れる”という事をそのように捉えている。
だからこそ、軽い気持ちで知った気にならないようにしないといけないな・・・
と、僕は淹れたてのコーヒーを飲み終える頃にいつもそう思うのだ。
もうちょっと、満足感に浸っていたいのだけれどね。

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     ・・・「③見えるようにしたい」

さぁ、どうやってこの穴たちの全体像を把握しよう?
手元にカメラがあったので、ひと塊ごとに穴の写真を撮り、
後で一枚一枚つなぎ合わせれば、なんとか全体像が把握できるな・・・と考えた。
だが、それは後でも出来そうなのでとりあえず後回し。
他にも、その大木に登って、全体が見渡せる位置から眺めて見てはどうか?とも考えた。
だが、登ったとしても、生い茂る葉っぱが邪魔をして、見渡すことは難しそうである。
ならばと考えたのが、一つ一つの穴にプレートをさしてマーキングしていく事であった。
そうすることで、穴の分布が目の前で立体的に立ち上がるのだ。
その方法なら、その場にいながら何となくでも全体像がつかめるのではないだろうか?
なんとも原始的な方法かもしれないが、これしかないと思った。
そう思うと、すぐに家に帰りマーキングになりそうなプレートを作って
全ての穴にそれを取り付けていった。

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     ・・・「④怪しい人・・・」

プレートを穴に取り付けている最中、公園を散歩する人たちが、
この様子をじっと見ていた。(いや、見守っていた?^^;)
いい年こいて、僕は大変に恥ずかしがりな面があるので、
もし、その人達に「何をやっているのか?」と聞かれたらと思うと、
汗が、ぶわ~っと噴き出して、いても立ってもいられなくなり、
プレートなんか放り投げて、その場から逃げ出したくなりそうになった。
おい、おい、ちょっと待ちなさいよ自分。
そんなことをしたら、なおさら怪しい人で終わってしまうではないか?
さっきまでの勢いはどうした?
うん、よし、聞かれたら聞かれたでちゃんと思いを伝えよう・・・・
「穴が、穴がいっぱいで・・・”実は頭の中もいっぱいいっぱい”で、え~と・・・それで・・・」
とわけの分からぬ答え方になってしまってもいいじゃないか。
ニコニコしてれば悪いやつとは思われないさ!
それに、逃げ出そうとしたところで、
結局は穴の魅力に引き戻されるだけだろう?
その引力だかなんだかっていうやつにさ。
・・・・と気を取り直して、無事、全ての穴にマーキングを施したあと、
しばしその全貌を眺めることにした。
その頃には、さっき噴き出した汗は、心地のいい汗に変わっていた。
     
     ~以後、後編に続く・・・・


    
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「原点の扉」

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この画像は、あるCDジャケットの画像です。

10年以上前に、僕が初めて大きな仕事を頂いた時に制作した絵画でもあります。

絵画というよりは、イラストです。(今見ると、かなり下手っぴな絵ですが。)

なぜ、こんな古いものを引っ張りだしてきたのかと言うと、

この絵に込められたテーマが、僕の生きる原点の一つであるからです。

この世には、表現の方法として、絵、イラストに限らず、写真や映画、詩や小説、歌やダンスと

実に様々な表現手段が存在します。

僕は、その時々で表現手段が変わりますが、”何を表現したいのか”、

または”何が、自分を表現の世界に駆り立てるのか”・・・・と言ったものが、

この頃の自分と、今の自分と根底にあるものは全く変わっていません。

それは、簡単に言うと、「壁の向こう側に見える世界」への衝動です。

もちろん、壁に穴をほじって、

そ~っとのぞくような衝動の事・・・・ではありません・・・?
(いや、そうかもしれません・・・^^;)

一言で壁と言っても、色々な意味を含んでいるのですが、

ここでは、仮に「”心”に存在する壁」とでもしましょうか。

ようは”見えない壁”の類なんですね。

この世には、そんな壁によって曇らされたものが、沢山あるんじゃないかと。

”見えてない世界”の存在です。

いえ、”心の壁”の先にある”見えてるはずの素敵な世界”なのかもしれません。

そんな世界らしきものが、何を間違えたのか、日常からこぼれて見えるときがあります。

こぼれて見える・・・とは、ほんの一瞬、分厚い曇の隙間からのぞくようなヒカリみたいなものです。

何を見たのか覚えてないぐらいのほんの一瞬・・・・

だから、すぐに忘れてしまいます。見たことすら覚えていないかも知れません。

でも、そんな自分でも、脳裏にその破片みたいなものが残ってるときがある。

その破片が、自分を妙に引き寄せる。

一体これは何の破片なのかな?

見たことあるような見たことないような・・・・そんな破片たち。

その破片から発せられる魅力が分厚い雲で鈍らぬうちに

または、目の前の雑事に紛れてゴミ箱行きになる前に

それが何の破片なのかを一心不乱に、または思い出すように描きしるそうとする。

やがてそれが、ワクワクするような宝のありかを指し示す秘密の地図のように思えた頃、

僕は、その”何か”の核心に触れるための冒険に出かけるんです。


子供の頃は、それがいとも簡単に出来た。

だから、大人になってもそれがいとも簡単に出来るんだ。

そんなおまじないみたいな、勇気を胸に。


何度失敗して帰ってきても、絶対無理だといって何度落ち込んでも、

気づくと、また探しに出かけてます。

何度でも何度でも。

僕は、このジャケットを描いた時、そんな冒険の扉を開けてしまったのかもしれません。

そして、この扉を開けるに至ったのは、このCDに納められている男女二人のユニットが奏でる音楽と

二人の詩の世界が、僕の冒険への後押しをしてくれたからでもあります。

僕がその二人の世界を語るのは、いろんな意味で気が引ける部分もあるのですが、

あえて、僕なりに感じたのは、

「突き抜けた先に、すごくまぶしいキラキラとした世界があるよ。

そんなところでうずくまらずに、一緒にそこに行こうよ!」・・・・といったものでした。

二人から、”ぜんぜんちがうよ~!”なんて言われませんように。・・・祈り(^^;




(追記; この男女二人のユニット名であるsalad(サラダ)という名義での活動は、
現在休止中?のようです。
当時は、TBS系「どうぶつ奇想天外!」という番組のエンディング・テーマになるなど様々な方面で
活躍されてました。現在もそれぞれ活躍されていることと思います。
尚、このCD自体は、現在ではTSUTAYAかamazonぐらいでしか目にすることができなくなりました。原画も誰かに寄贈してしまったか、紛失してしまったかで自分の手元にないのが残念なのですが、あれ以来、今も続く冒険が、弱っちい自分を少しはたくましくしてくれましたし、そんな残念さも忘れさせてくれます。また、そうでなきゃならないと思います。
     
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つまんない輪っか

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   一瞬、「 うわっ !」って思った人もいるかもね 

   これは「うわっ!」ではなくて、たんなる「輪」だよ。

   僕は、いたってまじめな気分で 

   目の前にあった紙の輪っかを描いてみた。

   これを描いてる途中、僕の意識は3つに分断された。


   1つは、こんなものを描く楽しさなんて、あるのかな?

   1つは、こんなもの、つまらない”ただの輪っか”にしか見えない。それ以上の事はないさ。

   1つは、こんなものを描くのは、時間の無駄じゃんか・・・・。


   そんな意識が、僕の頭の中で、

   入れ代わり立ち代わりグルグルと主張し始める。

   退屈なら、エスケープしちゃえばいい・・・・。

   そうだ。 「こんなの、や~めた!」と言って、放り出しちゃえばいいんだ。

   僕の意思は自由だ。
 
   この輪っかに縛られた、身動きのとれない退屈のループを
   
   僕は、自由な意思のはさみで断ち切った。

   開放された僕の意識は、

   無重力空間さながら 目の前に置かれた紙の輪っかの周りを自由に遊泳する。

   すると、つまらなかったはずの紙の輪っかが、

   急に見知らぬ紙の輪っかに見えたので

   僕は思わず「うわっ!」って叫んだ。

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かくれんぼ-2011

          「① 隠れているもの」

目の前にする、あらゆる物事には、表面上だけでは、うかがい知ることのできない

良くも悪くも何か奥深いものが、必ず潜んでいるのだとするのなら、

かくれんぼをして遊ぶように、自分は”鬼”役になって、隠れた君たちをいつか見つけてみたい・・・
          
・・・と、そんな思いから、このブログの今回の記事を題材にして、

背後に、一体何が隠れているのかを鋭く探ってみる事にした。

優しい眼差しで、時に厳しく、注意深く、余すところなくこのブログの記事を読んでいく・・・・

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いろんな角度から・・・・

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徹底して・・・・

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検証してみたが、今のところそれが潜む気配は何ひとつ見当たらない。

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気分転換に、体幹を鍛えながら読んでみたり・・・・

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念の為、穴を掘ってみたり・・・・

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ちょっと疲れたので、湯船に浸かりながら、ボ~っと眺めてみたり・・・・

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だが、そんなものはちっともつかめない。

そんなものって本当にあるのかな?

湯船の心地よさが、いつの間にか僕に眠気を誘い

だんだんと薄ら遠のいていく意識の中で、

「見つけるのはもう無理」と言って、皆を探すのを放棄し、

かくれんぼの途中でこっそり家に帰ってしまった子供の頃のそれと、

ちっとも変わってないような今の自分に、ほとほと呆れ、

さらに気が遠くなり、

「それでもいいや・・・」と

なかば諦めかけていたその時に、

「背後への入り口」

iriguchi.jpg

・・・・なる箇所を見つけた!

この先にあるものこそ、この記事の背後に潜む何とやらにちがいない!

僕は諦めてなんかいないし、子供の頃の自分とはちがう。

僕は、やっと見つけたんだ!

だから、この入り口の先にどんな結末が待っていようとも、

決して後悔はしないんだ。

そう思うと、僕の胸の鼓動は一瞬でMAXに至り、

しょぼくれかけていた僕の自尊心も、大きく振るえたつのが分かった。

そして僕は、躊躇(ちゅうちょ)することなく

その入り口から、この記事の背後へと潜入していったんだ・・・・

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     ・
     ・
     ・ 
     ・

    深く    
     
     ・
     ・
     ・
     ・

    深く

     ・
     ・
     ・

それを見つけるまで

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     ・
     ・
     ・
 
  僕は帰らない

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     ・
     ・

  何でもいいんだ
    
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  何かをつかめれば
   
     ・
     ・

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     ・
     ・
     ・
 
だがしかし、

なんにも・・・・

なかったんだ。

なんにもね。

みんながびっくりするような

そんなものは、なんにも。

僕の激しい鼓動は、一瞬で平常の値に戻っていた。

僕は、出口に戻る途中、子供の頃に大好きだった「水曜スペシャル探検隊」の

エンディングで流れていた曲をつい思い出してしまった。

「原人バーゴンは、”今回”は見つからなかった」というあのナレーションと共に・・・・


         「② 今回のプロジェクトを振り返ってみて」

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今回我々は、物事の背後に隠れた”何か”を探すというとても壮大なテーマのもとで、

当ブログの総力を結集して組まれた一大プロジェクトをどこまでも果敢に

そして、最大限の勇気を振り絞って挑んできたのであるが、

残念ながら”今回”は何も見当たらなかった。

あの「背後への入り口」なるものが、単なるガセネタだった可能性は十分にあるのだが、

しかし、それ以外にも、この記事のあらゆる箇所を十分に探索したし、

徹底して検証したのも事実である。

そのことは、みなさんも十分に理解してくれることだろう。

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それでも尚、”何も見当たらなかった”というのは、

この記事が、単に”上っ面だけ”のものであり、

背後もへったくれもない、思わせぶりなだけの薄っぺらな記事でしかなかったという

見解も頭の隅に入れておかなくてはならないだろう。

だが、そのような事は、この記事を書いたブログのオーナーにとって、

どうしても覆い隠したい事実にちがいない。

そういう彼の気持ちに沿うように、あるいは、彼の焦りを覆い隠すように、

”それはすなわち、裏のないクリーンな記事だったという事であり、

至極安全な無毒無害を意味するところのものである。”

・・・という一見、耳障りの良い馬鹿げた結論を下す事もできる。

だが、そのような耳障りの良いフレーズにこそ、背後に隠された何かキナ臭いものを

感じなくてはならないのだ。

       
         「③ オフレコとして」

・・・でも実は、あの時、何かを見た気がする。

いや、見たというか、妙な感じがしてね。

もしかしたら、そのような妙な感覚こそが、

物事の背後を知る唯一の入り口なんじゃないかと

にわかに思ったんだ。


確かに、この記事の背後には、大したものは何もなく、

糞も飛び出さないほどの空っぽさしかなかったように思われる。

だが、そのあまりの空っぽさに雑音さえも生まれず、

唯一、聞こえるのは、自分の心臓の鼓動だけ。

それが唯一の温もりある生音だった。

そんなシンと静まり返った不気味な静けさの中で

僕は僕の温もりだけを頼りに戻る道を見定めた。

心臓の音って、こんなにも大きく聞こえるんだっけ・・・・

生まれて初めて自分の生きる鼓動を聞いた気がした。

そんな中、わらをもつかむ感覚で握った自分の中の確かな感覚。

不自然に背後を隠そうとするものと、堂々と背後に隠れて見えにくいだけのもの。

表に聞かせない音、表に聞こえない音・・・・確かに聞こえる音。

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何かが見えてきたような気がする。

何も見えなかった、あの空っぽの暗闇で、

僕は、自分の生きてる音が、見えたんだ。

表面上では、うかがい知ることの出来なかった、

背後に秘められた自分自身の生きてる姿を。

きっと、あらゆる物事も、全てが生きている。

それら一つ一つの生きている音が、聞こえるだろうか?

生きている音が見えるだろうか?

物事の背後を知る入り口は、生きている自分自身の中に

きっとあるにちがいない。


       
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「君」は何者なのだろうか?

君の事を色々知った。
あれもこれも。

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時には君自身が
色々教えてくれた事もあったし、
周りの皆が教えてくれた
事もあった。

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やがて、
君を見る僕の視界が
知ってる事で
埋め尽くされた頃、
君の似顔絵は完成した。
これが、僕の描いた
君の似顔絵だよ。

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僕は君の全てを知った気になった。
全てが見えている気になった。
過去に君を知り始めた事も
今、君を知り尽くしたと思える事も
そして、これから先の君の事も、
全てが、僕の視界の中に
あるような気がした・・・・。
(それは完璧な似顔絵だった。)
しかし、冷たく一言、
「これは私の似顔絵じゃなくて、あなた自身の似顔絵でしょ?」
・・・・一瞬なにを言われたのかわからなかったが、
その一言で、
頭の中を猛烈に火が吹いたのを覚えている。
僕の全てを否定されたかのような気がしたのだ。
自分自身の絵?
意味がわからない。
君自身を描いたのに。
その一言で、
僕は、僕が知ってる君の全てを、
そこにいる君自身を
・・・失った気がした。
     ・
     ・ 
     ・
悲しみに明け暮れ、
頭の中の火種も尽きる頃、
その時が・・・
訪れたんだ。

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君の事を知っている
一つ一つが、
まるで幻想だったかのように
ガラガラと崩れていき、
僕の視界から消えていくのを感じた。

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やがて、視界には、
僕が知りたかった
本当の君の姿が
かすれひとつなく
くっきりと現れたんだ。
(僕の描いた君の似顔絵とは
全く異なっていた。)

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そう、全く違っていたんだ。
かつての自分は、
僕は僕であり
君は君であるという
お互い別々な存在であると思っていた。
だから、知ろうとした。
でも、知る事というのは
そういう事じゃないんだ。
知る以前にすでに
君は僕であり、
僕は君なのだから。
その証に、
どこからか飛んできた一匹の蜂が、
君の花びらにとまったんだ。
と同時に・・・・
僕の体にも、その蜂がとまった感触がしたんだよ。
今、僕は君を前にして
(あるいは、君は僕を前にして)
ある事を確信している。
(確信しあっている)
蜂が君の花びらを這うのと同時に伝わる
少しばかり、くすぐったいその感触が、
君の本当の姿を描く
最大の手がかりなんだと
その時初めて知ったんだ。

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