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「幻想の目覚め、眠る根源④~」

コマ(独楽)が眠りに入る瞬間を見たことがありますか?
コマを回したことがある人なら、誰もが一度は見たことがあるかと思います。
僕は今でもコマを回します。指で回すとても小さなコマです。
そのコマの寝姿を見ているとコマと自分との間に程よい緊張感とでもいいましょうか、
あるいは凛とした意識のようなものが生まれ、お互い媚びる事もなく、
かと言ってお互いが無関心なのでもなく、どちらも対等の次元で、
”ただ、そこに在る”といったとてもシンプルな共通認識に包まれる気がします。
その瞬間、僕はこう思うのです。
この世界は、あるがままの下において、全てが自由なのだと。

「眠る独楽に見るあの言葉」

心の中で、
あれはいいよね~とか
これは嫌だなぁ~とか
こうあるべきじゃん?とか
これはこうしちゃダメだろ?とか
あれやこれやの議論をし始めるとしばらくはその様子を見ているのですが、
その議論がいっこうに止む気配がない場合には、僕はこのコマを回します。

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コマ自体のつくりの精度や回し方、軸の接地面の状態などにもよりますが、
コマは、回り始めてからしばらくすると非常に安定した回転状態に入ります。
その瞬間から、己の頭の中の”目の前で回っているコマ”という認識がふっと消え、
そっと静かにそこに自立しているただの不思議な物体のように見え始めるのです。
その時のコマの状態を「コマがねむる」と表現するそうですが、
僕にとってその光景は、何度見ても変わらずにとても不思議な光景として感じられます。
回すたびに、そのコマの寝姿に心を奪われるようにしてしばらくの間、見入ってしまうのです。

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そうしていると、さっきまで議論に夢中だった自分の心は、なおいっそう騒ぎ始めます。
心を奪われるなんてとんでもない!
眠ってるコマを見て、なにが見入ってしまうだ!
”寝入ってしまう”の間違いだろ!
コマもお前も居眠りなんかこきやがって、平和ボケもいいところだ!

そんな時の自分の心は、目の前の事から少しそれた所で主張します。
なんでもいいから発言しないと心が心でいられなくなる恐怖にかられるからです。

一見、止まっているように見えるが、これは確かに自分が回したのだから
回っているに違いないのだ。

いや、目で確認できないんだったら、コマは回っていないのと同じだよ。
いつだって、自分の目に映るものが正しいとしてきたじゃないか。

いやいや、ちがうでしょ、回っているんだよ。
でなきゃ、このコマはなんとなしに自立してるとでもいうのかい?
なんで、自立する意味があんの?そんなアホらしいことがあるかっての。

・・・・おまえら、バカ。
コマが眠りに入る原理ってのはだな、
回り始めた時のコマの傾きとは反対方向にも力が働いてだな、
それが徐々にバランスをとりながら直立した状態になると、
それがまるで止まっているかのように・・・・

いつまでたってもしゃべる心・・・・
心の宿主である私が、目の前のコマの不思議さに目を奪われるのを
必死に阻止するかのように、心から一時も目を離させまいとして・・・・。

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僕はコマを見ているが、僕の心は、コマを見ていない。
どうして、目の前のコマをおしゃべりすることなく
あるがままに知覚することができないのだろう?
でも僕は知っているよ。
僕の心だって、ほんとは知っている事なんだ。
心というのは、そういう側面も持っているんだってことをね。

コマは止まっているのか?
止まっているのなら止まっているんだろう。
コマは回っているのか?
回っているのなら回っているのだろう。

心よ、どっちだっていいじゃないか。教えてやるよ。
止まったり回ったりしているのは、コマではなく自分の心だよ・・・・。

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自分の心は、金属製のコマの表面に映る自分の心の姿を見ているんだ。

それを知る時、もう一度、僕の心が激しく揺さぶられる。
自分の目の前のものをありのままに見るという事は、
同時に自分の本当の姿を見るという事でもあるんだ。
そんな自分の姿を見て、絶句してしまうかもしれない。
気絶してしまうかもしれない。二度と見たくないと思うかもしれない。
でもそのような態度では、物事のあるがままの姿をも見ることができなくなってしまうんだ。
これは正しいとか、これは間違っているとか、
目の前のあるがままの姿とは関係のない事を
問題にしたがる心・・・・
思慮分別に必死な心・・・・・
自分だけを見ていてほしい・・・・
自分の事だけを考えていてほしい・・・・
それが、自分の心の本当の姿なのだ。
そんな自分の姿を無理やり美化するのでもなく、
かといって、けなしたり、卑下したり、
悲観したような眼差しで見るのでもなく、
眠るコマをあるがままに見ている時と同じように
自分の本当の姿をあるがままに見てあげる・・・・
本当は、なにも考えなくとも全てが見えている。
知っている。
あるがままの姿には、問題なんて存在しないのだ。
自分が、本当の意味であるがままの存在として、
あるがままに事を振る舞うならば、
そこに問題なんてものは、生まれようがないのだ。
あるがままに悪意に満ちてやろうなんてことも不可能だ。
あるがままに善意に満ちてやろうなんてことも不可能なのだ。

きっとそうに違いないと思う。
僕は思い出す。
あのおじさんには、問題など何ひとつ起こらなかったじゃないか。
起こるのは、無意味に騒ぎ立て、何から何まで問題にしたがる僕らの心の方だった。

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ねぇ、コマがね、
空気の布団に包まれて
気持ちよさそうにしてさ、
スヤスヤと眠っているよ。
コマも夢を見るのかな。
不思議だよね・・・・。

様々に湧き起こる感情は、心が最も得意とするところだ。
あのおじさんだって、色々と思うはずだ。
いい日もあれば、わるい日もあるに違いない。
道端に転がるウンコを踏んでしまった事だってあるだろう。
そのウンコをした犬に向かって、この野郎と思った事もあるに違いない。
誰かに騙されたことだっていっぱいあるだろう。
世の中を恨んだりすることもあったかもしれない。
でも、あのおじさんはそれさえも問題にはしない。
だから、実際に犬に向かってこの野郎と叫ぶこともなければ、
自分を困らせた時と同じように世の中を困らせてやろうなどとはしない。
なぜならあのおじさんは、どんな時だって、てっぺんに昇ったお日様が、
”あれは、お日様だなぁ”とただそれだけを感じる事のできる自分を
決して見捨てたりしないからだ!
だから、真夏の太陽を恨んだり、
凍りつくような真冬の曇り空に、太陽はなぜ顔を出さない!と、
叫びたくなる自分の気持ちとは全く関係のないところで、
あるがままの自由そのものを闊歩しているのだ。
一説によると、太陽にも寿命があり、活動を終える日がくるという。
人類は、どれだけ太陽の事を知っているのだろうか?
本当は、ちっとも知らないのではないだろうか?
知っているのは、太陽の事なんかではなく、
明日もまた昨日と同じように東の空から太陽が昇るという事を
当たり前のように思っている自分の心の方ではないだろうか?
だが、あのおじさんはそんな間違いは起こさない。
なぜなら、明日、突然太陽の寿命が尽き、人類の身に何が起きたとしても、
我々の本当の自由は覆されるものではないと知っているからだ。

そんなおじさんが、眠っているコマを見たら一体、何と言うだろうか?
きっとこう答えるにちがいない。

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「これでいいのだ」と。

バカボンのパパは、我々を含めて全ての存在が自由な存在であることを知っている。
自分の身に何が起きても、あるがままでよしとする事で、
我々は始めから自由であり、始めから平和である事を教えてくれているのだ。
バカボンのパパを取り巻くすべての登場人物のあるがままの振る舞いの中に
あるがままの自由そのものの姿を見る。
その自由の姿にこそ、自分の存在が溶け込んでいるという事を
バカボンのパパは確信している。
だからこそ、自分だけが自由であることなど決してありえないと知っているのだ。
もし、君が自由だと思うなら、この世界のあらゆるものも自由なのだ。
もし、君が不自由だと思うなら、この世界のあらゆるものも不自由なのだ。
そのどちらの場合にも一貫した自由を見、一貫した不自由を見るのなら、
どちらの認識であってもそれは正しい。
つまり、自分の自由をひとり占めする為に
相手の自由を奪おうなどという事は決してできないという事なのだ。
もしそれを心の欲するままに行おうとしても、
結局は自らの自由を自ら奪うのと変わらないのだから・・・・。

我々は、バカボンのパパと等しく自由なのだ。
なのに、すでに自由な我々が、遠くのどこかに自由とやらを見出し、
又は知らぬ間に人工的な自由を押し付けられ、
その自由を掴まなくては一生奴隷のままだなどと言い、
ならば我こそはと必死になって、時には誰かの自由を踏み台にしながら、
時には、時代によって色の変わる幸福や自由というものに点数を付け、
他人よりも1ポイント高いらしい自分の幸福度数に狂喜し、
その貴重な1ポイントを減らしはしないかと常におどおどしたりする。
1ポイントの幸福ぐらい、誰かにくれてやったらどうだろうか?
そんなバカな!だったら、1ポイント分かそれ以上の見返りがあるならくれてやる。
タダな自由や幸福なんて、この世にあるはずがないんだよ。バカ者めが!

・・・・我々は、一体いつになったら100点満点の自由が得られるのだろう?
まるで、自分の右手が無いと言って、自分の右手で自分の右手を掴もうとするぐらい
難しい事をやってのけなければ、自由は掴めないとでも言うのだろうか。

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しばらくすると、コマは重力の働くままに
回転力を失い、ふらふらしながら転がって、
最後には静止します。

すると僕の心が、舌の根も乾かぬうちにこう言いだします。
「もっと精度のいいコマだったら、もっと長く回っていられるんだろ?・・・・」

静止したコマは静かに言います。
「君の心はよほど精度がいいのだろう。口が回りっぱなしで、とどまることを知らないのだから。
それともなにかい?君の心というものが、静かにしている時をいまだかつて僕は見たことがないが、君の心のつくりはバランスの悪い粗悪品なんじゃないのかな。いつだってあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。僕のねむりの状態をありのままに見てごらんよ。きっと君の心は、息をのんで静まり返るだろう。そして、重力のように重い心の足枷から解き放たれた君は、僕らと等しく自由そのものなんだと気付くはずだよ。分かるだろう?僕は君にとっては精度の悪いコマかもしれない。だけど、僕は自分が粗悪だとは、ちっとも思ってないんだ。僕を非難する君の心は、君自信を非難している事にほかならない。僕は今も昔も、これが僕のつくりの精度なんだ。それは諦めなんかではない。僕は与えられたありのままの姿を生きているだけだなんだ。だから、こんな自分じゃダメだとも思わない。だからと言って、そう思わない事になんの問題があろうか?問題なんてのは、君の心の中にしかないんだよ。」

・・・・そう、世の中は自分の意のままにならない問題だらけの世界だと心は思っている。
でもその一方で、この世界は自分も含めてあらゆるものが自由の中にあり、問題なんてものは
一つもないとも感じている。
もし、問題というものがあるとするならば、それは、あるがままの世界とは全く別の世界に
存在しているものなのだろう。いや、存在しているという表現が適切かどうかは分からないが、
それは正義っぽい正義が、最も正義っぽく輝くために悪っぽい悪の存在を用意しなければ
ならないのと同様に、自由っぽい自由には、不自由っぽい問題というものが絶対的に必要であり、
もし、その不自由っぽい問題というものが途絶えてしまう事態に陥れば、自由っぽい自由としての
存在自体が、”~ぽさ”で成り立つ危うい存在ゆえ、いとも簡単に消滅の危機に直面するだろう。
だから湧き出るようにして絶えず問題というものが生まれてくる必要があるのだろう。
でも、そんな事をコマがわざわざ僕に伝えてくれたわけじゃないって事ぐらい分かっているさ。
もし、これまでの事を、コマがしゃべってくれた内容の一部始終だなんて一言でも言おうものなら、
僕の心がすかさずこう言い出すだろう。

「なら、録音したテープを持ってこいよ・・・・」ってね(笑)。


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僕は、心の中で

>議論がいっこうに止む気配がない場合には、
僕はこのコマを回します。

>僕にとってその光景は、何度見ても変わらずに
とても不思議な光景として感じられます。

・・・・そう、これでいいのだ。










「バカボン」の語源は、現在公式には梵語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん。仏、仙人や貴人の称号)に由来するとされている。これは「トリビアの泉」でも紹介された。 また、バカボンのパパの常套句「これでいいのだ」も「覚りの境地」の言葉である様で、レレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) をモデルにしているという。~以上、wikiより抜粋~

「天才バカボン」の作者である故・赤塚不二夫さんの告別式の時、タレントのタモリさんが述べた弔辞の内容から赤塚氏の私生活そのものが、達観された境地であった事が見てとれます。

~以下、弔辞の内容から一部抜粋~
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰(いん)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

※全文の内容は、各自お調べ下さい。




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RobertCole

Bernardo Bertolucci監督の『LIttle Buddha』の中のラマ僧ノルブ の最期の言葉。
『目も耳も鼻も舌も体も意もない。色も音も香りも味も感触も法もない。我もなく他者もない。老いや死もなく、老いや死がなくなることもない。苦しみもなくその原因もない。道もなく知恵もない。得ることもない。
ないが故に求道者は知恵を完成し、心を曇らせることがない。曇りのない心に恐れはない。』

私たちの拙さが決めた何かはしかし、何も存在せずただあるがまま・・・。
by RobertCole (2014-01-15 00:15) 

寂光

はじめまして、
昨日はご訪問とコメントありがとうございました。

まだ全ての記事の文章を読んでは居ませんが、
不思議な世界と遭遇いたしました。
何だかこれまでに出会ったことのないブログに出会いました。
また、立ち寄らせて頂きます。
by 寂光 (2014-01-15 09:27) 

t-youha

RobertColeさん、こんばんは。
ラマ僧ノルブの言葉、面白いですね。
ノルブの言葉を普段の我々が二元的に捉えようとすると、”~我もなく他者もない”のくだりで思考上の混乱が発生しそうですね。そこから二元的な思考の下での、その混乱に決着を付けようとする戦いが始まる気がします。その戦いの舞台が我々の日常の生活・姿であろうかと思います。それは”確かにある”ということを実感したいと願う戦いかもしれません。”自分”を取り巻く環境、他者、身に起こる様々な事、それに伴う感情、それらを通して、”自分”という輪郭線がクッキリと際立ち、自分像が確立されてくような感覚にある種のスッキリとした一応の決着を見る。やっぱり”自分”は”ある”んだと。泣いたり笑ったりの人生劇場、自分には確かに涙がこぼれる目があるし、笑う口がある。そこから生まれる世の中の面白い考え、発見、絵画や歌、詩や写真が僕は大好きです。ですが、そのような戦いの中で、二元的な思考の下に決着をつけようとしている自分が、ふっと消えてなくなる瞬間に出くわす場合がある。その時、その瞬間、二元的な思考の下に混乱している私の思考が停止していることに気づく。決着を夢見た先の決着なき、あるがままの突然の決着、すとんと腑に落ちる感覚。それが「ないが故に~」で締めくくられる言葉、または RobertColeさんの”何も存在せずただあるがまま・・・”に繋がっていく瞬間なんだと思います。それは決着をつける戦いからの離脱ではなく、決着をつけたいと思う自分が確かにいるが、決着をつけなければならない戦う相手はどこにもいなかった・・・・といったものではないでしょうか。なぜなら、ノルブの言葉は、~ない、~ないと続けて、最後の心に関しては直接的に”ない”という表現をせず、曇りのない、恐れのないという表現をしています。おそらくは心というものは誰にでも”ある”が、そこに曇りも恐れもないと暗喩しているのかなと。
「~はない。」という言葉による表現は難しいですね。ちなみに「景にあうては唖す」という言葉があります。絶景の前では黙して語らずという意味のようです。松島での芭蕉も「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」(あるがままの絶景を前にして、それそのものを表現する言葉を奪われた)という言葉を残しています。つまり、実際は、芭蕉は松島に関して詠んではいないそうです。それもまた、あるがままに対する言葉によらない表現・あるがままの態度の一つに思います。僕はこう思います。私にはそれを詠む言葉がない・・・と思う私がいる。あるがままの絶景が、思う私を奪い、そこには、あるがままのわたしのみがあり、もはやわたしという感覚さえも欠落し、あるがままの絶景と共に”ない”に至り”ある”がままに決着を見た心がある。
~すみません。コメント欄なのに記事みたくなってしまいました。
by t-youha (2014-01-15 22:45) 

はなだ雲

なるほどおぉ~ぉ
コマは回っているとき、眠ってるんですね!
「動」を極めれば「静」になるのかも^^。
2枚目の写真のコマは、宇宙飛行士に、見えなくもないです。
不条理な事であっても「これでいいのだ」、と達観する
漫画バカボンのパパの、そら恐ろしさが
読んでて・・心地良かったりしたナぁ。
t-youhaさんのブログには、考えるヒントが、あっちこっち
たくさん散りばめられているので
ちょっと読んでは・・アレコレ考えが脱線して、まとまらなくて
先に進みませーん 笑
by はなだ雲 (2014-01-15 22:53) 

t-youha

寂光さん、こんばんは。
ご来訪ありがとうございます。
こちらこそ、寂光さんのお撮りになった「富士」の写真をはじめ、色々と学ぶところがありました。
表現とは何か?表現されているものとは何か?被写体との距離感、間(ま)を無視して被写体との接触はあり得ない。
程よい間が作用して、撮影者の意図を超えてそこに写りこむ被写体の姿。それもまた、撮影者と被写体のあるがままの姿と言っていいのではないでしょうか。
当ブログですが、自分でもどうして不思議な世界になってしまうのか分からないのですが、自分では思い測ることが出来ないことを好き好んで書こうとしているからそうなってしまうのかもしれません。そういう意味において 寂光さんの言葉には救われる思いがします。
by t-youha (2014-01-15 22:53) 

t-youha

はなだ雲さん、こんばんは。

はい!いろんな事散りばめてます(笑)
いえ、散らばってます(爆!)
僕もちょっと書いては、う~ん?あれ?最初に書きたかった事って、こんな事だったっけ?とあれこれ急停車したり、脱線しかかったりしてしまいます(笑)。このテーマ、自分には無理!なんて言って、そういう時はいいかげんに放っておくのですが、ふと、うまく書きたいことが繋がっていく道筋が見えたりする・・・・時があるような気が・・・・する(笑)
な~んて、それらしい事はいくらでも言えるのですが、僕はもっとバカボンのパパのように一言で言い表せないものかなぁなんて、むしのいいことばかり夢見ています。1000記事ぐらい書いたら何かもっと簡潔に書けるかなぁ.
by t-youha (2014-01-15 23:09) 

扶侶夢

t-youha さん、こんばんは。
日々ご健勝のこととお慶び申し上げます。^^)

ひと言で言い尽くせないけれど、百語語れば言い尽くせるかといえば、そういうものでもないようです。
簡潔には書こうと思えば書けるのでしょうけれど、それで自分が納得できているのか…という事とはまた別なんですよね、きっと。

ところで、ここに止まっているコマがありますが、自分の認知できる世界において“止まっているように見えている”のであって、動いている地球上にあると考えて、その視点から見れば動いているとも解釈できますね。
私の視点では、万物はすべて動いている、つまり変化し続けている。形の崩れぬものは何ひとつとして無いと考えています。
そして固定させたり保管したり時間を凍結させて、永遠にとどめようとする人間の性は、まさしく幻想を生み出す能力だと思っています。強引に言ってしまえば永遠の存在こそが「虚無」と位置づけています。

何年か前に本ブログで「チベットの砂絵」みたいな記事を書いた記憶がありますが、その頃の感覚はまだ生きてますね。
それにしても赤塚不二夫さんとバカボンのパパは「すごい」です。^^)
私もようやく目の前に展開し始めた「解放の極み」のようにも思えます。
by 扶侶夢 (2014-01-17 22:21) 

t-youha

扶侶夢さん、おつかれさまです。

>強引に言ってしまえば永遠の存在こそが「虚無」と位置づけています。

やはり、突き詰めればそういった所に辿り着くのでしょうね。無常観とも言えるでしょうか。そこへ至るまでの経緯は人それぞれ様々な道があるところが面白いところで、それが論理的思考の下において、または直観的な捉え方であったとしても行き着くところが大体同じような所であるのが、とても興味深いですね。止まってるコマの認識世界から、地球上にあるコマという解釈に触れたとたん、また一つ認識の世界が広がり、立ち止まってそう考えている自分もまた地球上の中の存在として常に動いている。そうやって意識がどんどん広がりを見せていく。宇宙の外に行って確認したわけではないけども、直観的に捉えられることに確信が持てる事は、やはり誰の胸にも宇宙と繋がっている部分があるからなのだろうなぁと思いましたね。もう、そうなってくると突き詰めていった世界で、いつもみんなと会っているようなそんな感覚さえ覚えます。もう、あれですね、コメントを読んでいろんな事に触れ、そこから生まれてくる発見が楽しくって楽しくって、コメントの内容がノートが何枚あっても書ききれないほどになってしまって内容がまとめきれなくてですね、変なまとめ方になってしまっているかもしれませんが、ご容赦ください(笑)

>万物はすべて動いている、つまり変化し続けている。形の崩れぬものは何ひとつとして無い

そうですね、永遠の存在こそが「虚無」という位置づけに繋がっている内容(経緯としても)だと思うのですが、ぐっと我々の日常に歩み寄った表現として聞こえてきますね。そういえば、ソネットブログのRobertColeさんの写真に、道路に白墨か何かで頭の中に記憶している無数の地名をひたすら書き続けるオジサンを見た事を思い出します。あれもやはりいずれ風化してしまうわけですが、そういう意味において、永遠にとどめようとする人間の性とそもそも人間の行為とは?といった事に現実的な揺さぶりをかけてくるものがあります。おそらく 扶侶夢さんの砂絵の話とも繋がります。その頃の感覚がまだ生きているという事は、疑いようもなく確信の持てる事(直観も含む)は死なないという事なのではないでしょうか。それと似て非なるものが幻想だと思うのです。だから一見とても分かりにくいものです。おそらく、我々の性によって産み落とされた幻想は、自ら何かを理解し自ら自滅することはしないのかもしれません。幻想は、我々の心の隙間に永遠性を魅させる事で自らが生き延びようとしているのかもしれませんね。僕は、幻想の外側(仮にそれを現実とします)で起きた落雷によって、いわば強引に現実(幻想の外側)の世界を見せられた時の事が、そのように思える根拠となっていますが、今となってハッキリと分かるのは、落雷によってあらゆる恐怖の根源である死の恐怖(消えてなくなる恐怖)に怯えたのは、幻想の中の自分だったということ。だからと言って、幻想は死にませんでした。それ以後は激しい混乱との戦いの日々でしたが、やがて、その戦いも幻想の外側の自分(幻想の名を持たない何者でもない自分・名無しの権兵衛)が、幻想とうまく寄り添いながら生きる術を教えてくれているように思います。
by t-youha (2014-01-18 22:01) 

扶侶夢

t-youha さん、レスをありがとうございます。

>だからと言って、幻想は死にませんでした。
>幻想とうまく寄り添いながら生きる術を教えてくれているように思います。

象徴的な言い方をすれば、「幻想と原罪は人が生きる上で必要なもの」だと思っています。
愚かしくも誇らしく生きる…そんな感覚を信じていますね。ここへ来て、改めて『歎異抄』の世界をもっと理解したいと思うようになりました。

>僕は、幻想の外側(仮にそれを現実とします)で起きた落雷によって、いわば強引に現実(幻想の外側)の世界を見せられた時の事が、そのように思える根拠となっていますが

そう言えば懐かしいですね、思い出しましたt-youha さんが語っていた「落雷のエピソード」。様々な要因が時間の中で重なり合い、熟成しあって、そして気づきというか悟りと言うか…目が見開いたクリアーな状態になってゆくのでしょうね。
by 扶侶夢 (2014-01-19 01:59) 

t-youha

扶侶夢さん、こんにちは。

>愚かしくも誇らしく生きる

なるほどと思いました。宇宙の中のちっぽけな生き物・人間というくくりで見れば、人の行い・能力に大した差はなく、愚かさと誇らしさを両方引き受ける態度が、「これでいいのだ」「あるがままに見る・生きる」といった人間の自然な姿に気付く道筋であるのかもしれませんね。ただ、「これでいいのだ」「あるがままに見る・生きる」という言葉のみが、都合よく持ち出されて、ただ愚かさに生きたり、ただ誇らしく生きたり、そのどちらか一方にのみ思いとどまろうとしている限り、愚かさも誇らしさも人間(自分)の中にある事を知るのはなかなか難しく、背反に抵抗している限りは、愚かも誇らしさも一方的な敵にしか見えなかったりして、それが苦を生むのかもしれないですね。「歎異抄」を検索してみました。書籍としていっぱいあるんですね。興味があります。僕も一回自分の中で「歎異抄」を通過させてみようかと思います。
by t-youha (2014-01-19 13:41) 

SILENT

大寒を鞘におさめて独楽ねむる

こんな句が最近生まれました
眠る独楽は思考を重ねているイメージと
の連想になりました。最近ダブルミーイングに関心が高まっています。
アイズワイシャットの意味も好きです。
by SILENT (2014-01-22 12:40) 

t-youha

SILENTさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。句を詠ませていただきました。いろいろ思考してみたのですが、僕には句を詠む能力がこれっぽっちもないかもしれません。よっぽど言葉を知らないというのか鈍感というのか・・・・。
そんな自分ですので、ガッカリしないでくださいね。
以下、僕のダメダメな詠みの内容です(笑)最初から的外れな事をやっている可能性が大ですが・・・・
>最近ダブルミーイングに関心
>アイズワイシャットの意味
これらは先の句に対する”合図”や”ほのめかし”であるとすると、
ダブルミーイング→ダブルミー”ニ”ィング=「ニ」がない。
アイズワイシャット→アイズワイ”ド”シャット=「ド」がない
つまり「ニ」と「ド」がない→「大寒を鞘におさめて独楽ねむる」の句より「に」と「ど」の文字を抜いてみる。鞘におさめての「に」を抜いて、
「ど」は独楽の「独・どく」から「ど」を抜いて、だいかんをさやおさめてくらくねむる・・・・
う~ん、鞘納め?苦楽・暗く眠る?鞘自体をスペース(空間)として考えれば、鞘は「蔵」という意味もあることから、蔵に納めて、暗い蔵の中で眠る?暗い蔵の中は、目を開けて(アイズワイドオープン)も暗い、目を閉じて(アイズワイドシャット)も暗い、見ているのか見ていないのか、いっそ目にたよらず「大寒=だいかん=たいかん=体感」で見よう(捉えよう)ではないか。・・・・と。でもこれじゃ、句を詠むというより、勝手に暗号文にしちゃって下手な解読をやってるだけですね。しかも掛け詞が見えていない。ならばと、「大寒」から、身を切るような寒さを「体感」とし、身を切るを「刀」とすれば、大寒(刀)を鞘におさめて・・・・とうまく最後の独楽に続きそうに思ったのですが、
>眠る独楽は思考を重ねているイメージとの連想になりました。
とのことで、この流れではこのコメントの内容につながらない・・・・・
もう僕にはお手上げです(笑)
そもそも、自分が「大寒を鞘におさめて独楽ねむる」という句をそのままの意味で分かっていない気がします。それだと掛け詞に気づくわけがないですよね。たんに自分に詠む力がないようです。気を悪くなさらないでくださいね。SILENTさん、もし宜しければ、僕のダメダメな詠みの訂正、句の意味などをご教授願いたく思います。気が向いた時でかまいませんので、よろしくお願いします。
~「アイズワイドシャット」を日本語に訳した時の矛盾した意味の中に、感覚的に訴えかけてくる要素が潜まれている面白さは僕にもわかる気がします。
by t-youha (2014-01-22 23:58) 

SILENT

こんにちは
難解句にお付き合い下さり有難うございます

double meaning

Eyes Wide Shut

ニとドの欠けた単語からの連想お見事な推理ですね。
欠けたものへの興味「残欠」という物体も好きなひとつです。
脱線しないで本題に戻ります。独楽の眠りという表現に強く引かれました。人は眠っているときは激しい活動をしているのだが(回転する独楽のように)澄んで、眠っているようにも見える。
昔此の表現に驚いたのですが忘れていました。
忘れていたり、言葉の意味をひとつでとる人は、独楽は文字通り眠っているとは、倒れて静止した独楽と思う。
句に込めた念いは、大寒の寒さの中に独楽が静かに眠っているのではなく、激しく動く姿がよく似あうと感じたこと。
大寒の空のもと御正月疲れですやすや眠る独楽もある。
馬も今年は人気で、疲れをいやしている。
横浜で、下村観山展を最近見ましたが、横山大観とも関係のある人だったと観の一文字を見て気がつきました。
こじつけで「たいかん」が頭の隅に残り、大寒の時期に読む句でした。大寒を鞘におさめては、文字通り冷たい世界を何処かの鞘におさめたい気がしています。おさめても静かに独楽の回転音が聴こえてきます。

冒頭のEyes Wide Shut キューブリック監督の好きなdouble meaningと同様。眼を開けて閉じて見よ と逆説的な事が好きです
日本語の「あはれ」が「あっぱれ」に繋がる構造等、大好きです。
拙句 季重なりである事後から気づきました。
以上メモ程度にご判断下さい


by SILENT (2014-01-23 12:04) 

t-youha

SILENT さん、こちらこそ、野暮な事をお願いしてすみませんでした。
そして、丁寧にお教えいただき心から感謝いたします。
今回の「独楽の眠り」という言葉から、自分の想像や思いの枠を超えて、新たな感性に触れる事は自分にとって大変貴重な体験です。そして、そのような体験をさせていただけるコメントを惜しみなく下さる多くの皆様にとにかく感謝の気持ちでいっぱいです。今回の SILENT さんの句を通して、また新たな表現世界の存在を知りました。今となっては自分にとって後知恵の域を出ないのは否めませんが、それでも句に込められた念いを知ると、とたんにその念いの情景が浮かんでくるものなのですね。たった数文字でそこまでの情報量が込められていたのかと思うとほんとにびっくりいたします。コマを通して、静と動の両方が混在しているという情景の捉え方は、”Eyes Wide Shut” ”double meaning”に確かに繋がりますね。
「あはれ」という言葉のそもそもの使われ方や意味を僕も調べてみました。「あっぱれ」と使い分けるに至った現在、思いを伝える言葉としての分かりやすさや機能的な会話のスムーズさスピーディーさは増した気がしますが、それによって発する側と受け取る側の情緒的な感受性の器が損なわれてしまっているか、または強制的に狭まってしまって、あらゆる物事に存在する伝わりにくい側面といったものが、それによってそぎ落とされてしまい、あげくの果て残った表面上の側面だけしか会話の中で行き来せず、奥深い情報というものが見えにくくなってしまっているのではないか?また、ぼんやりとでも察するような機会さえも失いつつあるのかもしれないのではないか?とそんな事を感じました。
by t-youha (2014-01-23 16:42) 

楽っくん。(らっくん)

t-youha さん、こんにちは!

あははっ、バカボンパパには笑いました。
僕も赤塚不二夫は好きなので、赤塚先生が言ってた
「自分が一番下の人間だと思えばいいんだよ」
という言葉を 常に心に思って実践しています(笑)。
なのでこれ以上、下に堕ちることがないので
生きることが楽ちんになりました~~(^o^)。
あははっ、これでいいのだ!。
では、また☆!。
by 楽っくん。(らっくん) (2014-01-23 18:39) 

t-youha

楽っくん。(らっくん)さん、こんばんは。
赤塚先生のあの言葉、僕も存じております。一見、自分のことを卑下しているだけの言葉に思っていた時があったのですが、どっこい、とても凛とした生き方の態度なのだと気づくまで、僕には時間がかかりました。
ためしに自分の事を一番下の人間だと思い込むだけでは、なかなかその言葉の本質が見えてこないし、ただただ自分の自尊心が苦しむだけだし・・・・。
ですが、何らかの形で、もうすがすがしいほどの自分の無力さを思い知った時、あの言葉の魔法が生きたものとして舞い降りますね。ほんとに生きることが楽ちんになる魔法の生き方です(^^)。自分が出来ないことは、誰かがちゃんとやり方を教えてくれるし、自分が知らないことは、誰かが親切に教えてくれる。みんないろんなことを教えてくれるんだといった事も赤塚先生は仰っていたような記憶があります。あ、そういえば、楽っくん。(らっくん)さんのHNには「楽」という字が!!!なるほど!楽っくん。(らっくん)さん、名は体を表すですね。合言葉は「これでいいのだ!」
by t-youha (2014-01-23 23:40) 

楽っくん。(らっくん)

返信有難う御座います^^!。
楽っくん。の楽は、
「楽に楽しく生きる」という
モットーからつけました☆彡。
   ”<(^▽^)♪
by 楽っくん。(らっくん) (2014-01-24 02:16) 

t-youha

楽っくん。(らっくん)さん、なるほどなるほど☆
ちなみに当方のHN”youha”は、ひらがなの時もありますが、優しい葉っぱで”優葉”です。お菓子メーカーの「UHA味覚糖」の響きから付けました(笑)
by t-youha (2014-01-24 22:50) 

よいこ

何年も前に、コマが回されると、過去に戻されてしまう不思議な映画を観たのを思い出しました。
回っている時は、確かに
別の生き物のようですね。
バカボンが仏教からと聞いたら、妙に納得しました
善人、悪人をとわず、あの世界が誰にも平等である事に感動した経験があります^^
by よいこ (2014-01-26 13:39) 

t-youha

よいこさん、コメントありがとうございます。
映画の話、参考になります。ひょっとしたら、回転するものって、時間的な概念と結びつきやすいのかもしれませんね。例えば、時計の針が逆回転しながら過去にタイムスリップしていく様子が描かれるという表現はよく見られますよね☆僕も今後の創作に関して、コマの回転と時空の行き来をテーマにした案を色々と練っている最中です(^^)

~そうなんですよね、善人も悪人も問わず・・・・なんですよね。自分にとっての善悪の判断といったものが、いとも簡単に揺さぶられますね。
by t-youha (2014-01-26 23:34) 

MatGots

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by MatGots (2018-04-17 02:10) 

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