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自分は何者なのだろうか?



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机の上に、みんなそれぞれ一つずつ、

自分像という透明なケースが配られた。

さて、自分は一体何者なのでしょうか?

各々、自分像という透明なケースに

不透明の絵の具で、

自分らしき色を塗りつぶしていく。

クールで頭が良さそうな色は

青か紺色だな。

流行の色あいにした方が、好感もたれるかな?

でも、明るく社交的なのが、有利みたいだから

黄色か赤だな・・・。

およそ塗り終わる頃、

その時、分かったんだ。

あれ?なぜ塗るんだろう?って。

これじゃ、逆に自分が見えなくなっちゃうじゃんって。

その前に、こんなケース必要あるのかな?って。

そもそも、この問いかけの仕方は、おかしくないだろうか?って。

ひょっとしたら、

自分は何者でもないのかもしれないじゃん?ってね。

・・・どうやら、こういう事らしい。

免許を取ったり、就職したり、

お店でDVDを借りたり、

名刺交換したり、

家を借りたり、

相手の両親に、娘さんを下さいと

言ったりするのに手続き上、どうしても必要なんだとさ。

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たった今、

大地の上を自分の足で

絶妙なバランスを保ちながら

立っているんだなという事に、

今更ながら気づいた自分です・・・と言ったところで、

そんなものは身分証明にはならないし

おまわりさんは首をたてに振ってはくれないみたいだ。

そのおまわりさんもまた、

手続き上、おまわりさんを表すカラーで塗られた

自分像というケースを身にまとっているのだから・・・・。

人間ってめんどくさい事ばっかりやってるね。

自分は何者か?だなんて、

塗りたくったケースを皆がはずしてしまえば

すぐに分かるのにね。

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ギミック看板

先日、看板制作に関しての記事を書きましたが、

ようやく、それに関する画像の整理が、ほぼ終わりましたので、

記事と合わせて画像をアップしたいと思います。

・・・と、そもそも、なに屋さんの看板だったのか?

それを書くのを忘れてましたね。

看板は、車をカスタマイズする専門店のものでした。

詳しく書くと、ポンティアック・ファイヤーバード・トランザムという

アメリカ車を「ナイトライダー」仕様にカスタムする仕事をメインとしたお店です。

ナイトライダー?・・・知らない人もいるかと思います。

(「ナイトライダー」とは、以前TVで放映されていた米ドラマで、主人公のマイケル・ナイトが、
『ナイト2000(会話も可能にするK.I.T.T.という高性能人工知能と特殊装備を施したドリーム・カー)』
と共に様々な事件を解決するカーアクションドラマです。
実は、そのドラマに登場する『ナイト2000』というドリーム・カーは、アメリカ車の第3世代型
ポンティアック・ファイヤーバード・トランザム(1982年型)という車を実際にカスタマイズして
撮影用に作られたものでした。)

で、これが、このお店で『ナイト2000』仕様にカスタマイズされたトランザムの画像です。

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外装だけでなく、内装も見事に再現されています。

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K.I.T.T.(人口知能)も搭載・・・というわけにはいきませんが、ドラマの中での

K.I.T.T.の声そのままに、同じ声質で実際にしゃべるようなギミックも搭載されています。

もちろん、ちゃんと公道を走る車なので、パネル部分の電飾部をはじめ、

ハンドルなどの各パーツは、単なるお飾りのイミテーションではありません。

驚くことに全てが実用的に機能する仕掛けになっています。

・・・とまぁ、そんな夢のようなドリーム・カーを、実際に作ってしまうような

大変面白い事をやっているお店なので、

僕は非常にワクワクした気持ちで、この案件を引き受けさせてもらったわけです。

~で、下の画像、看板のとある部分をカットしてるところです。

今回の重要なテーマである、ギミック部分をなす肝心要の大切なパーツです。

ですから非常に神経を使います。

神経すり減らしすぎて、ヘトヘトです。見るに見かねてお店のメインエンジニアさんが、

交代でカットをしてくれてるところです。どうもありがとう!

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これは、カットし終えたもの。あくまでフラットな一枚板の上にトリックアートが

施してあるのです。

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そしてこれ ↓ が、そのトリックアートの全貌。

先ほど画像で紹介したナイト2000を描いたものです。

これは、人の背丈よりもかなり高い位置に設置する看板なので、細かい描写は避け、

遠目で見た時の分かりやすさを追求したデザインにしました。

えぇ~っ?追求?これがぁ???

すごくブチャイクな感じじゃないですかぁ~!!!!

なんだか、”グチャっと潰れちゃいました”って感じで・・・・

ものすごくカッコわるい・・・・ですよ!

・・・とまぁそんな事言わずに、

チョロQ とかミニカーみたいに可愛くデフォルメした絵といえば

そのように見えるでしょ?

キュートなナイト2000です。

でもね、これを角度を変えて見るとですね・・・・

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こんな感じに見えたり・・・

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こ~んな感じで飛び出してきたり・・・・

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更にどどーん!と、飛び出しちゃったり!

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不思議でしょ?

で、これ↓がその正面図。

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とまぁ、見る視点によって、いろいろと表情が変化していくんですね。

車が絵から飛び出してるように見える感じと、

見る人が左右に水平移動する動きに合わせて、絵も動くというトリックが含まれているのです。

これらは、絵に極端なパース(遠近感)を付けることによって生みだされるトリックです。

(実際に目で見る感じよりも、写真に撮って画像にした場合では、飛び出す感じとかのトリック感が、
うまく表現しきれないのが残念なのですが、雰囲気は十分伝わってると判断してアップに踏み切りました。)

・・・で、下の図は、壁面にそのトリックアートを取り付けたところ。

どのように取り付けてあるかは、ひ・み・つ!

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で、足場を降りながらそれを見るとこんな感じ。

ね、飛び出してるでしょ?

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で、完成した看板がこれ。(やっぱり実物よりもトリック感は薄いです。)

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~先日の記事でアップした施工前のお店の画像と比べたら、

かなり雰囲気が変わったかと思います。

ヤンチャな雰囲気とトイ的なカラーリング、そしてトリックアートを施したギミック看板・・・

これらは、お店の持つ雰囲気ととても調和していると思っています。
(・・・とクライアントはそう言ってくれました)

ちなみに看板の上段部分、黒地にFLAMEと描かれたデザインは、

昔、クライアントの母親がデザインしたものだそうです。ずっと大切に使ってきた

ロゴマークだそうで、歴史的なものと認知度を考慮してそのまま使用しました。

当初、上段部分の看板は、これより1.5倍ほど大きいものを予定してましたが、

これも予算との戦いの末、この大きさになりました。

で、これは、夜間のお店の画像です。

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上段部分が暗いままなので、夜間は目立ちません。

ですので今後、先方の予算が整い次第、スポットライトを取り付ける予定です。

それによって、影がハッキリとつくので、飛び出す感じがもっと出るでしょう。

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そして、下半分の行灯部分(光ってる電飾部分)についても、予算との戦いがありました。

いろいろと工夫した結果、いいアイデアを思いつき、

通常の行灯看板の10分の1以下の費用で施工が実現しました。

この施工方法については、材料をはじめ、試作的な意味合いもあり、現段階では

公表はできませんが、これから3年、5年とその劣化具合や耐久度などがクリアされ、

実用に値すると判断できれば、機会があり次第、当ブログにて、

そのアイデアを発表したいと思っています。





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天使のギミック

先日、あるSHOPの看板をデザインしたのだが、

デザインだけでなく、看板の制作から取り付けまでの施工を一括で行った。

そのデザインは、壁面から絵が飛び出して見えるような視覚的トリックを使った

いわゆるギミック(仕掛け)看板である。

(・・・看板にそんなカテゴリーがあるのかどうかわかりませんが・・・)

とまぁ、そんな事は別にして、

実は、そのギミックが、実際にうまく表現されるかどうかは、

実物を取り付けてみないとわからない部分が多く

完成するまでの間、それはそれはハラハラドキドキの連続でした。

あらかじめ、その看板と建物の簡単なミニチュアのセットを作り、

何度かシミュレーションした中で、問題なくギミックは活かされるはず

という、ある程度の確信はあったものの、

では、実際に現地でどうやってそれを具現化させるのか?

といった点では、少々あやふやなままの状態で現地に乗り込んでしまったのだ。

無茶といえば、無茶である。(他にも無謀、適当、無責任・・・と、いろいろな言葉が浮かぶ。)

事実、完成までの道中、実に多くの問題にぶち当たることとなった。

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実はその案件、自宅から現地まで簡単に行き来できるような距離にはなく、

しかも緊急の依頼だったこともあり、”無謀”にも事前の現地調査なしでデザインをし、

現場に乗り込んだのであるから、実際の場で予想外の問題が起こるのは

しょうがないといえばしょうがないのであるが・・・

だが、プロであるならば、予想外の問題に遭遇しても見事に解決する術を持っているものだ。

それらの基盤となるものが、ある程度の経験と直感の領域。

それと、何より大事なのが、ここぞと言う時に”いかに冷静でいられるかどうか”である。

と、思うと、自分はまだまだアマちゃんであった。

現地に向かう直前、立ち寄った親友の家で、

「もしさ、失敗しちゃったりしても、それが気付かれないように

スマシた顔でさ、”よし!OK!”とかなんとか言ってごまかすしかないよな~」

なんて”無責任”まるだしの笑い話にもならないような会話をして、いざ現地へと向ったのであるが

その「よし!OK!」、実はありとあらゆる場面で無類なき力を発揮したのだ。

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度重なる雨と台風並みの強風、あれがないこれがない、

事前の話とちょっと様子が違う、まずい失敗した、ミス、ミス、ミスの嵐、

予算枠との戦い・・・

以前、NHKで「プロジェクトX」という番組が放映されていたが

その番組で流れるテーマ曲が、終始頭の中で鳴り響いていた。

(あの番組で取り上げられるプロジェクトやそれに携わる人物達の身に

立ちはだかるハードルの高さに比べたら・・・自分のそれは屁でもないのだが・・・)

とまぁ、半分は頭の中でそんなBGMを流しながら、困難を楽しんでいた部分もあるのだが・・・。

しかし、幾度となく遭遇する問題に対して、不安に陥りそうになったり、

慌てふためくような事が、何度も何度もあったのだ。

そんな時、自分の慌てぶりや不安が表に出てしまうと、

集まってくれた職人さん達にもその雰囲気が伝播してしまう。

ついにはダメダメ気分漂う現場で、いい仕事に結びついた試しがない。

かと思えば、次々と起こる難題となかなか制作が進展しない現実を前にして

不安を払拭するかのように無茶に走る場面が幾度となくあったのも事実である。

悪い意味で、それは状況がまともに見れなくなってしまっている状態だ。

そんな時、他人まで巻き込むようなことは絶対にしてはならない。

ろくな事が起きないからだ。

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また、現場で人身事故を起こさない事も、何が何でもの鉄則である。

事故を誘発するような無茶な作業をさせたり、

安易な思いつきの発想を皆に強いる事もしてはならない。

たとえ無茶を犯さなければ前に進まないといった状況になってしまったとしても、

極力そのような流れを断ち切って、それを回避する術を練るべきなのだ。

いい案が出なければ、それに伴うリスクは全て自分がかぶるという強い意志のもとで。

しかし、困ったもので、自分一人の事となると、話しは別である。

無茶は無茶でも、”どうしてもやりたい衝動”にかられたら、

それはやるべきだと思っている。

厳密に言えば、その時は無茶を無茶だと認識していない。

直感的に、何かに導かれるようにそこに向って行く事しか頭にないような状態だ。

その結果が”無茶だった”という事になるのか、はたまた”運良くうまくいった”という事に

なるのかはどうであれ、その時は、とにかく何かにとり付かれたように、

また、何かに導かれるようにただ行動を起こすのみなのだ。

ただ、それに関しては、全てを自分一人で行う姿勢が大切だ。

結果、想像だにしないトラブルが待ち受けていたとしても

それが降りかかるのは最悪自分ひとりで済むからだ。

それは、イタズラに強がりを言っているのではなく、また、カッコつけてるのでもない。

それぐらい自分の直感に従って本当にやりたい事をやっているという自負があるだけ。

そして、基本的には一人で何かをする方が好きだ・・・という面がちょっぴりあるだけの話し。

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ところで、今回の案件を通して再認識させられた事がある。

それは、自分自身に不安を作るスキを作ったらダメだ・・・という事。

ある直感から、何かに導かれるようにやりたい事のアクションを起こすとは言いつつも、

そこにスキがあれば、いつでも不安は襲ってくる。

一旦不安の種がまかれると、その不安は事あるごとにどんどん成長してしまうのだ。

ところが、不安と言うものは、自分の身の危険を察知する意味での本能的な要素以外は、

意味もなく自分で勝手に脳内で作りだしてしまうものであり、

その自らが作り出した不安の波にわざわざ無防備に呑まれようと

するようなものなのだ。それほど馬鹿げたことはない。

・・・とは言いつつも・・・不安は襲ってくるのである。

ところが、そんな状況を事あるごとに救ってくれたものがあった。

先ほど「よし!OK!」の言葉が無類なき力を発揮した~と書いたが、

それこそが、自分を救ってくれた大変ミラクルな言葉なのであった。

例えば、看板に使用する板をデザイン上切らなくてもいい部分まで切ってしまい

本来なら「マズイ!マズイ!マズイ!」と慌てふためくところなのだが、

「よし!OK!」(一体何がOKなのやら)

と、さもそれが本来のデザイン通りであるかのように振る舞うのだ。

そこからがミラクルの始まり。

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ことの重大さに慌てふためく前に、その切りすぎた部分の形を活かして

デザインの微調整をしてみたらどうだろう?と思えたのだ。

そうなると、慌てふためく事なんかとうに忘れてしまっている。

起こった事に対して、次に何をしたら良いか分かっているからだ。

結果、当初のデザインよりも格段に良くなってしまった。

つまり、ミスがミスでなくなってしまったのだ。

だが、今までの自分なら、そのような結果には至らなかっただろう。

切りすぎたという失敗の念にかられて、オロオロと慌てふためきながら、

いかにして切りすぎた部分を元に戻すか?ぐらいの発想しかできなかったと思うのだ。

こういう類の事は他にもあった。

ある時、ビスを打ち込む為の下穴を図面とは違う箇所に開けてしまった。

自分の書いた図面である。

それをものの見事に間違えてしまったのだ。

自分の馬鹿さ加減に一瞬気が遠くなる。

しかし、そんな時でも「よし!OK!」

その一言で一瞬にして正気に戻る。

すると驚くほど冷静な自分がそこにいるのだ。

そんな自分が、その間違って開けた穴を見て、”どうにかなるさ・・・”と何の脈絡もなくそう思う。

結果、どうにかなる以上にどうにかなってしまったのだ。

間違って開けた穴の位置こそが、後々これ以上ないほどの絶妙な位置の穴として、

無事完成の一端を担う事になったのである。

きっと、今までの自分なら、漫画のような派手な慌てぶりで、

間違って開けた穴を急いで塞ぐ事にしか注意が向かなかっただろう。

ミスはすぐさま正さなきゃ~という思考と焦りに縛られて・・・。

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施工中は終始そんな感じであったのだ。

様々な事が起こり、その度に「よし!OK!」の言葉に助けられながらも、

”いよいよ壁面に看板を取り付けるぞ!”といった大詰めの段階で、

様子を見に来たクライアント(お客)から、差し入れの缶コーヒーと甘菓子が皆に振舞われた。

それならそれで一息入れてから~ということで、

皆でコーヒーを飲みながら、談笑していた時である。

ふとした事で、自分の飲んでいた缶コーヒーが、

こともあろうか取り付け直前のピカピカの看板の上に・・・・”ゴロン”・・・・と倒れたのだ。

その時は慌てるどころか、一瞬心臓が止まるかとさえ思った。

倒れた缶コーヒーは、勢いよくドックッドック・・・と看板の表面を茶色い液で覆い隠していった。

まるで、死んでお詫びします!とばかりに自分の心臓からドピュドピュと

激しく血が吹き出しているような錯覚さえ覚えたほどであった。

・・・が、こんな場面であっても

「よし!OK!」・・・なのである。

ここまでくると、何でもかんでも「よし!OK!」精神は無敵である。

実は、良く見るとそのこぼれたコーヒーは、

看板の表面をある一方向にしか流れていかない。

おかしいな?

微妙に角度をつけて傾斜させているはずの板の上を

なぜか流れるはずのない方向に流れていくではないか・・・

調べて見ると、実は傾斜させる為の重要な部材が、微妙な角度で曲がっていたのが原因だったのだ。

その事をこぼれたコーヒーが教えてくれたのだ。

もし、コーヒーがこぼれていなかったら・・・

もし、クライアントの前だからといって、慌ててコーヒーを拭き取ることに夢中になっていたら・・・

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ここまでくると、事は何かと紙一重なところで起きているような気がしてならない。

それはどういう事なのだろう?

たとえでの話しではあるが、実は、事を左右する紙一枚ほどのわずかな厚みにこそ

重大な秘密があるのだと思う。

その秘密を紐解くヒントとなるのが、今回の「よし!OK!」という言葉だ。

ちっともOKじゃないのに、「よし!OK!」

と言葉を発することで、慌てたり、不安にかられたりする自分に、

わずかな沈黙を促す効果があるようだ。

それは一瞬の出来事である。

その瞬間のわずかな沈黙の間だけ、研ぎ澄まされたような静けさの中に自分がいる。

そして、全身が目になったかのように、起きた事の有様を認識する事ができるのだ。

まるで、良い事が起きた、悪い事が起きた~といった概念の垣根を越えたところでの、

起きた事への限りなく濁りのない認識。

その瞬間の認識こそが、次なる展開への方向を定める重要な分かれ際となる。

そのような一瞬の出来事が、紙一枚分の厚さに詰まっているわけだ。

言い方を変えれば、起きた事に対しての濁りのない認識は、

その紙一枚分の厚さほどの、ほんのわずかな領域(瞬間)でしかできないのである。

そしてそれを可能にしてくれたのが、今回大活躍した

「よし!OK!」の言葉であったのだ。

厳密に言えば、自分自身に有無を言わせず、わずかな沈黙を促す作用があれば、

「よし!OK!]に限らず、別の言葉であってもいいのだろう。、

また言葉でなくとも、何らかのアクションであってもいいのだろうと思う。

簡単に言えば、慌てずに冷静になれればそれでいいのだから。

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何かが起こるというのは、いわゆる順調だと思われる事だけにとどまらない。

良くないと思われる事が起こる事も含めて、

事が自然な成り行きで起きているという堂々とした証なのだ。

順調に事が進んでいる時は、何かが起きている事に目がいかない。

問題が発生した時だけ、事が起こったとして慌てるだけの話しなのだ。

事はいつでもどんな時でも起きているのである。

良い悪いの垣根を越えて常に事は起きているのだ。自分が行動を起こす限りは・・・・。

しかし、単に事が起こると言っても、今回のようなコーヒーの一件や

度重なるミス、失敗と思われるような出来事を振り返ってみると

何か意味があって事が起きたような気もしてくるのだ。

例えば、自分のやりたい事、すなわち望んでいる事を達成させる為に、

何か意味のある問題を起こさせ、そしてそれによって重大なミスを発見させたり、

はたまた良いアイデアに辿り着かせたり・・・と。

そんな風に思うと、なんだか自分が望む事に対して、

何かが手助けをしてくれているといった感覚も覚える。

何か大いなる意志のようなものが・・・自分の手助けをしてくれている・・・・。

当ブログでは、たびたび天使という言葉を用いてきたが、それは天使の何たるかが

この世の真理へとつながる重要なヒントを与えてくれると思っているからだ。

(極端に言えば、それは天使でなくとも、きゅうりであったり、ライオンであったり、爪楊枝であったり

他人のくしゃみであったりしてもいいのですが・・)、

今回もその流れでいくとしたら、こういう表現はどうだろう?

手助けと思われる、何か意味のあるような事が起きたのは、

なにを隠そう”天使の仕掛けたギミック(からくり/仕掛け)”の仕業である・・・

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例えば、わざとミスを誘うような巧妙な仕掛けを事あるごとに用意し、

その仕掛けによって、自分をいいアイデアに辿り着かせたり、

重大なミスを気付かせたり・・・といった具合だ。

だが、そのギミックに対して”冷静であったのならば”・・・の話しであるが。

なんだかそれは、「君は、事の有様を冷静に見ているのか?・・・」と言わんばかりに、

天使に試されてるような気もしないでもないが・・・。

だったら、そんなミスや問題を誘うような回りくどいギミックを仕掛けなくとも、

何の脈略もなく、天才みたいにいきなり良いアイデアがひらめいたり、

始めから間違いを犯さないようにさせたりしてくれてもいいのになぁ~と素直に思う。

・・・が、そこは天使の悪戯にも似た、心憎い演出なのかもしれない。

ところが、そのような仕掛けの演出に気付かず、我を忘れ、何も見えなくなり、

慌てふためく中で完成に至る道筋から大きく逸れようものなら、

天使は、コーヒーだってこぼして見せるのだ。

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つまり、今回の一連で、何か意味のあるような事が起きた事こそ、

自分が望む完成へと向うように仕向けられた、天使の仕掛けた”ギミック”なのだ。

今回の案件を完成させるまでの1本の道筋には、実に様々なギミックが登場した。

完成に至る為の巧妙なギミックが・・・・。

言い方を変えれば、そのギミックが仕掛けられる意味は、

自分が望むべく完成への1本の道筋から逸脱することのないように~である。

逸脱しようとすれば、事あるごとに天使がギミックを仕掛けてくるのだ。

何度も何度も、気付くまで、いいアイデアに辿りつくまで。

だから、何か問題が起きた!といった状況で、その問題(ギミック)に慌ててはいけないのだ。

慌てる必要もなければ不安になる必要もない。

ましてや、「クライアント様ごめんなさい!」と言って、

心臓から血が噴きだすような思いをする必要もないのである。

もし、起こった事が不運による災難や困難と思われるような事であったとしても、

紙一枚分のわずかな領域の狭間で、冷静に、そして瞬時に事の有様を見据え、

それが天使の仕掛けたギミックであると知ったならば、

自分が望むべく成功への、なくてはならない重要な演出なんだと

笑顔で言える時が来るだろう。

ところが、そんな天使の演出を、ギミックとして楽しめないとしたら・・・

それは、マジシャンの芸を見て、あれは嘘だと言って楽しめないのと一緒である。

自分が望む人生の道中、そこに正しく向うように仕掛けられた巧妙なギミックを

あれは嘘だと言って拒むのなら、自分の人生を嘘だといって拒むのと一緒なのだ。

事は、良い悪いの垣根を越えて、紙一重で常に起きている・・・・。

ひょっとしたら、人生を楽しむとは、数々のギミックに遭遇し、そしてそれを楽しむこと・・・

そういう言い方もできるのではないだろうか・・・・。


・・・とまぁ、話しは先ほどのこぼれたコーヒーの件に戻りますが、

そんなこんなで、間一髪、看板の不具合に気付く事ができ、最終調整に入る事が出来たのが、

そんな(順調すぎるほど順調なように作業が進む)様子を見て、クライアントは

「いよいよ完成ですね」とだけ言って、ニコッと笑い

満足そうな顔をして現場をあとにした。

自分は、倒れた缶に残ったわずかなコーヒーを口に含みながら、

缶ごしに車に乗り込むクライアントの背中を見た。

「あの人、なんくせの一つも言わなかったな。器の大きい人だな・・・」

とそう思った。
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            ん?ひょっとしたら・・・・


今この記事を書いてる最中にふと思ったのであるが、

差し入れに缶コーヒーを持ってきたクライアントもまた、

天使の一人だったのかもしれない。

いや、そうに違いない。

事が起きたのだ。

紙一重のわずかな自分の視界には、

車に乗り込むクライアントの背中に、天使のような羽があるのが

あの時の自分にはちゃんと見えていたのかもしれないのだ。




※完成した看板の写真は、施工記録の整理が終了次第アップしようと
 思っています。
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2010-12-12

  ART:「ORANGE LINE」 Digital on MSペイント
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夕暮れ時の空が描き出す様々なオレンジのラインは、見る者にノスタルジックな想いを蘇らせ

過去の一点にいたずらに留まらせようとするものでは 決してない。

なぜなら、そうこうしているうちに

そのオレンジのラインは、刻々と表情を変え、やがて闇色に溶けていくのだ

その間の時間は、全てが今の連続である。

輝くオレンジ色はもう見えない。限りなく闇の色に近づいたオレンジ色は

もう君の思っていたオレンジ色ではないはずだ。


そして今、君の姿形をなぞるオレンジのラインは

完全に闇に溶ける直前にこう言った。

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  ART:「無題」 Digital on MSペイント
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12月5日

いい加減な疲れ方・・・こんな毎日。

 ~ART~:「無題」 Digital on Photo shop CS3
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きのうのいい加減

あしたのいい加減

加だけでもなく

減だけでもなくてね

気持ちよく

今日もバタンキュウ

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だけど、あるんだよ

君が苦し紛れに

目の前に広がる世界を見渡しても

そこに君が求めてやまない

安住の地を

決して見る事はないだろう。

ART:「無題」Digital on MSペイント
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苦し紛れが 

紛れも無く限界に達する時だろうか

君は

安住の地が

頭の真上にあることを知った

ココロは

それを教えてはくれなかった

なぜなら

ココロはそれを知らないからだ



君が

何らかのかたちで

ココロに縛られた時

筋肉は収縮し

首はうなだれて

太陽の光が落とす自分の影に

閉じこもる

君が

何らかのかたちで

ココロが奪われてしまった時

ART:「FACE!」Digital on MSペイント+Photoshop CS3
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君は全てを解放し

首はうなだれることを

知らず

頭上の太陽にグッと近づいて

さっきまでは気付かなかった

ココロの真上に

安住の地があることを

懐かしく思い出したんだよ。

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「こんなはずのユートピア」

・・・唐突ですが、脱皮をしているので、しばらく記事のアップが出来ませんでした。

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結果、当ブログを長らく放置してしまう事となった・・・のです。

ちなみに昆虫達が、脱皮をするところを思い浮かべてみて下さい。

完全に無防備です。

なぜなら、敵に襲われても手も足も出ないからです。正確には、まだ手も足も出てないからです。

たとえ出てたとしても、フニャフニャで抵抗すらできません。

彼らは、一刻も早く脱皮を無事成功させる事に一極集中するしかない状態なのです。

だから、僕も一刻も早く脱皮を済ませることに集中する以外になかったのです。

「腹ペコだから、脱皮はひとまず休憩して、エサでも捕りに行こう~っと。」

「眠いから、ちょっとひと眠り・・・」

「あ!その前にブログの記事を書かなくちゃ!・・・」

・・・そんな事、脱皮の途中にできるわけありません。

~ご理解いただけたでしょうか?

僕の周りの人間達は、理解してくれました。

「フッ、単に飽きたんだろ?」・・・と。

・・・「フッ」って何でしょうか?「フッ」って。

ちょびっとだけ気になります。

ブログを放置してる間に、色々と心配もされました。

「忙しいのか?」

「病気でもしたの?」

「何で更新してないの?どうしたの?」

・・・などなど、いろいろ暖かいお言葉も頂きました。

しかし、たとえ忙しくとも、病気だろうとも、日々何かを感じるはずです。

それをテキストとして、絵として、書き(描き)記す事はできるのです。

・・・とまぁ、苦しい言い訳はこの辺で止めときましょう。

あまりに未熟でしたので、書けませんでした。

絵は、仕事を含めどうにかこうにか、描いて降りましたが・・・

僕は、この2ヶ月の間、良い事悪い事一切を含めて様々な事が一気に押し寄せ、

事あるたびに思い悩みました。

僕は、めったに人に相談する事はしませんが、思わず、胸の内を打ち明けた事もありました。

しかし、押し寄せてくる事のスピードは、容赦なく自分をあおりたてます。

そんな状況下、一体自分はどうあるべきか、ほんの束の間の時間とスペースに

必死にしがみついて、自分を見つめる事に精一杯でした。

何も感じず、ただ単にスピードに流されるのと

感じていながら、自ずと流れに身を任せる事とは、全くもって違うからです。

自分は、流されてるのか?

流れに身を任せてるのか?

その違いを違いとして把握するには、今までの自分では判断でしきれませんでした。

ですから、今までの自分を脱皮して、一回り大きな目で見つめる事が何よりも先決だったのです。

しかし本当は、まだ脱皮の途中です。

いよいよ、羽がのびてきて天使になれるのかな?などと、ちょびっと期待しましたが、

まだ幼虫のままみたいです。期待しているあたり、まだまだ青二才なのです。

あと何回脱皮すれば、天使になれるのやら・・・

まだ、脱皮の途中だと言いましたが、今までの古い自分の半分はまとったままの状態なのです。

古い自分を抜け出るのも大変です。全身全霊をかけたパワーが必要なようです。

でも、もう半分は新しいと感じる自分です。その自分がようやく手足を動かし、

よろよろしながらも当ブログの記事を書いてます。

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様々な事が押し寄せた事の一つに、

知り合いの友人が、練炭自殺をしてこの世を去りました。

「この世に未練はない」と言い残して。

突然の寂しい知らせに心が痛むと同時に、この世に未練がなくなったなんて、

悟って釈迦やキリストにでもなったのか?と言いたくもなりました。

本当に未練がなくなったのなら、そこには人間としてよりよく生きることのできる

素晴らしい人生が待ってるはずだ・・・とふと思ったからです。

なぜなら、未練ほど人間を縛り付けて、思い悩ませるものはないでしょう?

ですから、自分から言わせれば、未練の無い人生なんて、

こんな清清しいことは無いと思ってしまうのです。

正直なところ、自殺者のほとんどは未練があるから、未練に押しつぶされるから

死を選ぶのだと思います。こんなはずじゃないと。

未練がありすぎてサヨナラです。

間違っても、自分の命を犠牲にして、他者の命を生かすような事とわけが違います。

そこには、本当の意味で自分の命に未練はないのでしょう。

僕は、そのような人こそ、全てを超越した天使な人間なのだと思っています。

よく自殺志願者に対して、「自殺するくらいなら、死んだつもりでもう一度頑張ってみろ!」

と言って説得したりします。ですが、死んだつもりで頑張れと言葉では簡単に言えても

実際には、並大抵の事ではできないのです。

それこそ悟りの境地にでも達しない限り・・・。

しかし、その説得の言葉には、人間がよりよく生きる為のヒントが含まれていると思います。

ひょっとしたらそれは、「死んだつもりで」ではなく、「死んで、もう一度頑張る」という事ではないでしょうか?

死んだつもりでは、未練がなくなったつもりでしかないからです。

先ほど、悟りの境地にでも達しない限り~と言いましたが、

世の中には、死の縁をさ迷いながらも、息を吹き返した人々が沢山います。

ですが、もう一度未練を感じたくて、わざわざ息を吹きかえしたのでしょうか?

色々やり残した事がいっぱいあるのに、そんな未練の中で死んでたまるか!

という思いが、死の縁から舞い戻る原動力となったのでしょうか?

僕は、表現的にはどちらも違うと思います。

全てを捨てて、身軽になって生きる事へのシンプルなアプローチができたから。

又、それによって生きることの本当の意味に触れたから、舞い戻る事ができたのだと思います。

言いかえれば、そのような緊迫した最中に、余計なもの全てを捨てなければ、

自分の生に集中できなかったのだとも思うのです。

そういう事を思いながら踏まえると、現時点での自分はこう思うのです。

未練に塗れた古い自分を殺してこそ、新しく身軽な自分に更なる生が待っているのだと。

生まれ変わりと言うものがあるのかないのかは、わかりませんが、

決して、自殺してから次の生まれ変わりの時に頑張る・・・という事ではないのです。

しかし、そうは言い放っても、現に今の自分は脱皮しきれていません。

言い換えれば、今までの自分に未練がましくしがみついてる状態です。

正直、未練を手放すとは、死に値するほどの恐怖を感じます。

脱皮し、一回り大きくなったところで、まだ幼虫であるならば、更なる未練が、

言うなれば試練となって襲ってくる事も容易に考えられます。

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未練、試練は、自分がそう受け止めるなら、いつだってそれがその人にとっての

最大の難問です。未練、試練は、それだけで辛く苦しいものに思えてしまいますから、

大きい小さいの程度はありません。

ですが、何とかそれを乗り越える事は重要だと思います。

どんな形であれ、脱皮をしなければなりません。

生きてる人間が、各々の持つ未練という恐怖に打ち勝つ事の重大さを

身をもって知る事が出来た時、自殺という自らの命を絶った者の行為が、言葉はおかしいですが、

少なからず報われる事になるはずだと思っています。

そういう死を選んだ者に対する行為をせめて無駄にはしなたくないという、

僕の悪あがきでもあります。
 
・・・最後に、‘こんなはずじゃない‘という思いがつのるのは、‘こんなはずな人生‘にしたいという思いが、

胸が弾けるくらいあるからです。

ですが、自分の思う‘こんなはずな人生‘と言うものが、次々と未練を生むような危ういものならば

それ自体を疑ってかからなければならない。

その思いは、本物か?

作り物か?

そのような‘こんなはず‘だった自分なりの夢描くユートピアは、

何かの拍子に死の選択さえ選ばせる可能性を含んでいるかもしれないからだ。

それこそ、死の縁に観るような生きる事の本当の意味から遠く離れた場所で描く

幻想のユートピアでしかないのかもしれない。

もしそうなら、今の自分が、本当の意味に触れるには、触れるまで何度も脱皮を繰り返す以外になさそうだ。
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「ジ」

エジプトのピラミッド・・・

イースター島のモアイ像・・・

イギリスのストーンヘンジ・・・

ファミリーレストラン「ジョナサン」のロゴ・・・

世の中には、不思議なモノがいっぱいある・・・・。

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今回、上記に挙げたこれら不思議なモノに共通している‘ある点’について着目し、

それを通して、ネガティブな意味で発せられる「単調な毎日」というものについて

少し考察してみたい。

「いや、その前に‘ファミレス「ジョナサン」のロゴ・・・’って?」

と、お思いでしょう?

ちなみに「ジョナサン」とは、「すかいらーくグループ」として、関東や東海あたりの都心部を中心に

展開しているファミーリーレストランの事です。

その「ジョナサン」に使用されているロゴは、英語表記のバージョンとカタカナ表記のバージョン

がありまして、今回、不思議なモノとして取り上げたのは、カタカナ表記バージョンの方です。

「いやいや、そういう事でなくてね、

なんでピラミッドやモアイやらと並んでジョナサンのロゴなの?」

・・・そうですよね。まぁ、そのような疑問はとりあえず‘横に置いといて’もらって(笑)

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さて、これらに共通するある点とは、一体何を指して言ってると思いますか?

「どれもカタカナだよね?」という鋭いご指摘があろう事は、重々予測しておりますが、

その点についても、申し訳ありませんが、ちょっと‘脇に置かせて’頂くという形で・・・・

・・・とまぁ、さんざん引っ張ってしまいましたが、その、つまり、脇に置く・・・横に置く・・・・置く・・・

・・・そうですよ、

「置く」という行為なんですよ。

上記に記したそれらには、「置く」という、ごくありふれた日常の行為が、

どれも行われている~という事なのです。

ピラミッドやストーンヘンジあたりは、表現的には「置いた」というよりも

「積んだ」といった表現の方がしっくりくる方もいるかもしれませんが、

「積む」という行為は、例えばピラミッドに関して言えば、

それ自体をを構成する一つ一つのブロック状の石材を

まずはじめに所定の位置に「置いた」という行為があり、

更にまたその上に石材を「置いていった」といういう見かたをすれば、

「積む」という表現と「置く」という表現は、人間の行為自体に差は無いと解釈できますので

ここでは、「置く」という表現に統一したいと思います。

(細かく言えば、恐らくこれらの建造物は、当時の見えない力に対する信仰の表れとして

「より高く」「もっと高く」といった意識が、「置く」という概念から

やがて「積む」という概念のもとでそれを完成させていったとも考えられますが・・・)

ちなみに、ピラミッドにモアイ像、ストーンヘンジあたりは、皆さんもなんとなく姿かたちを

思い浮かべる事が出来るでしょう。

小学生ぐらいの時に、これら世界の七不思議と言われるような類を図鑑などで目にした事が

きっとあるはずです。そして、胸躍るような思いに駆られた人も少なくないと思います。

どうして?どうやって?あのような巨大な建造物を作る事が出来たのか?という素直な気持ちは

不思議という言葉の持つ引力と相性よく絡みあい、頭の中はますます興奮し、

眠れない夜を過ごした人も、中にはいるかもしれません。
 
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それぞれについては、様々な角度から検証がなされ、歴史的に解明されつつある物も多く

それらによって浮かび上がってきた、その時代の人々の思想や人間の持つ英知の深さに、

ただただ驚くばかりですが、それでも尚、煮え切らない何かが残るわけです。

きっと‘現代人の知らない何か’が、‘科学をもってしても解明されないであろう何か’が

きっとあるに違いない・・・全人類を揺るがすほどの真実が、まだ・・・

・・・などと、簡単には解明されて欲しくないなぁ~という願いにも似た気持ちで、

夜な夜な、更なる未知への思いを馳せたりもするわけです。

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実のところ「世界の七不思議」という言葉に限って言うと、

もともとは、古代の地中海地方に存在していた七つの巨大建造物を指したものであり、

それらを「世界の七つの景観」と題した書物の中で

「必見に値するもの」といった意味で紹介したものだったのだそうです。

ですが、そこには、「謎」とか「ミステリー」といったような記述はどこにもありませんでした。

ところが、英語で「Seven Wonders of the World」 

日本語で「世界の七不思議」と訳された事により、

‘~Wonder ~’の驚異的といった意味や、日本語の不思議という言葉が入り込んでしまった

おかげで、ミステリー漂う建造物というイメージがついてしまったのです。

尚、現代版・世界の七不思議(新・世界七不思議)とされるものの中には、

上記のものはどれも含まれておりません。もちろんジョナサンのロゴも・・・。

ちなみに、スイスを本拠地とする「新世界七不思議財団」による現代版・新・世界の七不思議が

2011年に第2回目の選定がなされるようです。 前回の第1回目の最終候補に日本の清水寺が

ノミネートされましたが、結果選外となってしまったようですが、

現在も‘不思議~’と名乗ってはいるものの、候補のほとんどは歴史的に解明されたものが多く、

やはり、当初の「必見なる建造物」といったニュアンスでそれらを捉えたほうが良さそうです。

・・・とまぁ少々、いや、かなり話が脱線しまったのでもとに戻しますが、

ここらで気を取り直して、まずは謎の「ジョナサン」のロゴとやらを見てもらいましょう~

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どうです?不思議ですよね。

・・・・どこが?

「ジ」が。

しばらく ジ~っと眺めていると・・・・

「ジ」の濁点の部分が・・・・不思議な位置に・・ありませんか(笑)?

なんだか勢いよく 点、点、点、点・・・・とまるで恐竜の牙のような感じにも見えたり・・・・。

ひょっとしたらそれは、濁点の位置が不思議な位置に~というよりも、

「シ」の文字の上はらい(ノ)の部分が、異常に長く伸びてしまっているというべきでしょうか?

そういえば、お菊人形の髪の毛が、知らず知らずのうちに勝手に伸びていくという怪談話を

どこかで聞いた事を思い出します。

そうか!長い年月をかけて上払いの部分だけが、勝手に伸びていったという事か!

成長する文字?・・・・怖いというより面白い・・・かもしれない。

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だが、後に続く文字とのバランスを考えると、上はらいの長さはちょうどいい気もする。

それならば、「シ」を構成する二つの点が、濁点の重みに耐えかねてしまい、

知らず知らずのうちに沈んでしまったのだろうか?二つの点が、妙に下のほうに詰まってる

感じがする。まるで人間が、やがては老いを迎えるのと同様に、

この「ジ」という文字も、かつてはあったのであろう濁点の重みを支えていた筋力が

老いと共に衰え、点二つがやがて沈んでいったなれの果ての姿なのか・・・

「置いた」というより「老いたジ」の姿・・・

とまぁ、悪ふざけも含めて、このロゴを初めて目にして以来、

「シ」と「濁点」のバランス感覚が、心に妙な引っかかり方をしたまま

ずっと気になっていたわけです。

しかし、考えたところで、どうとなるものでもなさそうです。

ですから、しばらくの間、心の中でそのままにしておきました。

ところが先日、それをある観点から見つめてみるとひょっとしたら面白いかもしれない~

という一つのキッカケを得る機会に遭遇しました。

親友から、南雲治嘉という人の書かれた「環境・空間・構成」というデザインに関する本を

借りて読んだ際、そこに「置く」という行為について書かれている箇所があったのです。

南雲氏いわく、「地球には引力があり、結局万物は地球上に置かれているものなのだ」という。

自然とは「置かれている」ものであって、それが「置く」ものになったのは、人間の手が加わった事を

意味している。「置く」ことの主体は人間なのである~と。

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この一文を目にした時、先のモアイ像やらピラミッドやらが頭に浮かんできたと同時に

そういえば・・・・と思い出したのが「ジョナサン」の濁点の件でした。

この「置く」という人間の行為をもとに考えてみると、あの「ジ」のデザインは、

デザイナーの側が、主体的に濁点をあの位置に「置いた」のだ。

細かく言えば、「ジ」の濁点の位置は始めから決まっていたのか、

後々、「ジ」という文字と「ジョナサン」という文字全体の

バランスと雰囲気を調整した結果、濁点のあの位置が決まったのかは定かではないが、

このデザイナーは、確実に濁点を意識的にそこに「置いた」のである。

その結果が、あのデザインの「ジ」なのであると。

ですが、あくまで自分の場合、通常「シ」に濁点を付けるとすれば、右上にそれを配置して

「ジ」とします。

それは、主体性というよりも、そのような位置に置きましょう~というような事を習った

記憶と皆もそのような位置に配置しているし・・・といった客体的、受動的感が強く、

自らが、濁点をどこに配置しようかな?と考える必要もないぐらい、

当たり前にいつもと同じ場所に置くだけ・・・の存在として扱ってるように思います。

こうした自分の濁点に対するそのような扱い方は、「ジ」のデザインのそれと比べると

感覚的にではあるが、あたかも定食に出てくる小皿に入った、たくあんや白菜の浅漬けのように、

あくまでもメインではない‘添え物’的な扱いにも似てるような気がしてきたのです。

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それに対して、「ジョナサン」の「ジ」に見られる濁点の扱いとは、

添え物的な存在としての扱いではなく、あたかもカレーと一緒のお皿に盛られている

‘福神漬け’のような扱い方をしているように思われるのです。

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ちなみに、今までお店で食べたカレーで、カレーとは別に福神漬けが小皿に入って

出される~というような事に遭遇した事はありません。

また、‘福神漬けやラッキョウは、ご自由にどうぞ~’といったスタイルのお店であっても

それは、お客さんが好きなようにそれを取って、カレー皿に盛る事を前提としており、

やはり、それ用の小皿が登場するわけでもありません。

ですから、「ジョナサン」に見られる、「ジ」の濁点の扱いとは、

小皿に入れて脇に置かれるたくあんや浅漬けのような扱いではなく、

メインのカレーと同じ土俵に盛られる福神漬けのような扱い方に

近いと思えるのです。

別の言い方をすれば、今まで、当たり前に置かれていた濁点の位置を見直し、

デザイナーの側が積極的に主体的にその濁点を「置きなおした」「配置しなおした」ことによって、

その瞬間、濁点が脇に置かれる添え物的感覚を見事に打ち破ったと言うことではないだろうか。

濁点が、それを扱う人間の手により主体的にメインのお皿の上に堂々と盛られたのでる。

そういう濁点に対する主体的な意識の違いは、あの「ジ」のデザインに如実に表れ、

見る側の日常に密かに溶け込んでいる‘当たり前’という無防備な意識を

一瞬で非常事態に巻き込み、そして見る側の脳に鮮烈な焼付けを施す。

いつもの定位置にあったはずの濁点が、非日常的な位置に「置かれている」という違いだけで

見る側に向かって、それほどまでのエネルギーを放出するに至っているのである。

それは、同時に「置く」という行為自体もまた、当たり前過ぎるほど当たり前過ぎて

「主体的に何かを置く」という意識すら忘れかけてしまうほどのぼやけきった日常に

有無を言わせず覚醒を促しているのだとも言えるだろう。

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そのように思うと、すでに感覚的には、モアイ像やストーンヘンジあたりの建造物を

自分が初めて目にした時の感覚とさほど変わらないと思えてきませんか?

普段、どこにでも転がっているような当たり前に存在している石・・・。

巨大ではあるものの、そのような当たり前の存在である石が特定の場所に

人間の意図的な何かを発しながら、そこに「置いてある」という衝撃・・・。

それらを初めて目にした瞬間と言うのは、形がどうとか、バランスがどうとかいった

美的感覚の類に心が突き動かされたというよりも、

自分の中にある何らかの‘当たり前的感覚’が一瞬で打ち破られたという衝撃に

驚きを隠せなかったというのが正直なところではないでしょうか。

我々の‘あたり前’という意識は、普段明確に感じ取ることはできない類のものである。

だからこそ、そういった意識を明確にさせてしまうようなものが自分の視界に

ぽっと現れたりする事は、生きるうえで大変に意味のある事なのだ。

それは何故かというと、自分にそのような衝撃を与えるようなものを

ちゃんと認識できるか否かによって、人生とはつまらない事の連続となってしまうのか、

はたまた、人生とは刺激に満ちたもとなってしまうのか、大きな分かれ目になるからだ。

多少大げさかもしれないが、そのようなモノが自分の視界に突如現れたとしても、

認識できなければ、人によってはモアイ像もストーンヘンジも「ジョナサン」のロゴも

‘当たり前の意識’に飲み込まれ、何事もなかったかのように

消え去っていくものでしかないのである。

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 世界には七不思議どころか、三桁の不思議があると揶揄される事があるらしい。

だが、きっとそれどころでは済まないはずだ。

世界には、いや、自分の身近な身のまわりでさえ、数々の不思議が、非日常的な刺激が

認識されるのを待ちわびるようにして存在しているのだと思う。

しかし、それらを認識できるか否かによっては、なんの不思議もない、

味気ない世界にいとも簡単に変貌してしまうという事を忘れてはならない。

いつも同じ風景、何も起こらない毎日、刺激のない日常・・・

そのような毎日に満足を覚えているのなら、何ら問題はない。

しかし、それを息苦しいと感じて悩む人は少なからずいるものである。

だが、そんなことに悩む必要もないのだ。

先程、身のまわりに潜む刺激の数々を認識できるか否かの差だけで、

世界というのは、いとも簡単に退屈な世界に変貌してしまうと言った。

逆を言えば、世界とは、生き生きとした刺激に満ちた世界に

いとも簡単に変貌させることが可能なのである。

単調だと思われた自分の日常の中にも、世界を変貌させるような不思議や刺激は

すでにちゃんと用意されているのだ。

あとは、それらを認識してあげればいいだけである。

わざわざ、刺激を求めて何処かへ出かけたり、無理やり何か特別なことをする

必要はあまりない。

目を見張れば、自分のすぐ目の前にそれはあると分かるはずだから。

それに、自分の中にある何らかの‘当たり前的感覚’が一瞬で打ち破られる衝撃にこそ

意味があるのだから。

何度も言うようだが、世界は退屈の塊にもなれば、刺激に満ち溢れたものにもなる。

そのカラクリを知ってしまえば何てことはない。

好きな時に、好きな場所で、今すぐにでも目を見張るほどの刺激に満ちた世界に変えることが

できるのだ。

ようは、世界というのは、自分自身そのものなのだ。

何故なら・・・

君の視界に広がる世界には、数々の不思議や刺激がありながらも、

いつも同じ事にしてる風景、何も起こらないようにしてる毎日、刺激に気付かない日常・・・

そのような世界を‘単調な毎日’と言っているだけなのだから・・・・。




*今回挿絵としてアップさせて頂きましたスケッチ画は、全て「AI」にて制作しております。

意識の境目②~

前回の「意識の境目①」で述べた事を踏まえて、他に感じた事を書いてみたいと思います。

まずは、庭の片付けの話しの続きです。

・・・その後、あちこちに埋まっているブロックの破片達を全て撤去し、一箇所に集めてみると

かなりの量でした。ブロックの破片の山の出来上がりです。

「さて、このゴミの山をどうしようか・・・・」

「産廃業者に頼んで処理してもらうのも、お金のかかる話しだしなぁ・・・」

すると母親が、「それなら、これを花壇に使ったらどうかしら?」

「それはナイスアイデア!どうせなら、これを一つ一つ白く塗って使おう!」

・・・・と、最終的には花壇として活用する案へと落ち着いた。

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もし、その場に母親がいなかったら、このブロックの破片達はどうなっていたのだろう?

少なくとも、自分は、これらブロックの破片達を一つのゴミの山という見かたでしか

見ていなかったゆえ、いかに捨てるか?といった発想でしか考えなかったに違いない。

それならそれで、素晴らしいアイデアでこのゴミを捨てる案が浮かんだのだろうか?

それについては、いささか自信が・・・ありません・・・・。

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さて、今度は花壇作りの話しになるが、一人が塗料と刷毛を買いに行ってる間に、残った全員で

泥に塗れたブロックの破片達を一つ一つ丁寧に洗い始めた。

しかし、その洗いには大変苦労したのである。割れたブロックの破片達は、

一つ一つ形が違う上に、細かな凸凹がいくつもあって、注意深く全体を見回しながら

洗わないと、気付かないところに泥が付着したまんまなのだ。

だが、それだと塗装する時に支障が出る。泥が塗料をはじいてしまうのだ。

だから一つ一つを舐めまわすかのように、確認しながら洗わざるをえなかったのだ。

もし、これらブロックが、割れずに元の形のままのブロックだったら、流れ作業で次から次へと

洗っていけるのに・・・・などとしょうもない事を考えたりしながらも、

やっとの事で全ての洗いが完了し、それらを並べて天日干しにして、

塗料の到着を待つ事にした。

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さて、ちょうど頃合を見計らったかのようにして塗料が到着。皆で一斉に塗りを開始した。

先ほどの洗いの大変さと同様、全体を見回しながら塗っていかないと、必ず塗り残しが発生した。

その頃からか、塗りを待っているブロック達の山を前にして、

先ほどまで思っていた破片の山という漠然とした見かたは、すでにしなくなっていた。

ブロックの破片一つ一つを、個性を持った石として接するようになっていたのだ・・・・。

・・・というよりは、洗いや塗りを通して、一つ一つが様々な形をしているという事を

まざまざと感じさせられたと言うべきだろうか。

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 ~とまぁ色々とあった中で、やっとのことで塗りの作業を終え、

それぞれのブロックの破片達を再度並べて天日干しにした。

アップした写真のほとんどが、その時の状況を記録したものである。

~塗料の乾ききらないうちに天日にあたるブロックの破片達は、太陽に負けないくらいピカピカと

光り輝いていた~

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そんな様を見ていると、なんだか、一つ一つの破片が、人間のようにも思えた。

笑ってる人、泣いてる人、悔しがる人、すまし顔の人、おちゃらけた人、厳しい顔の人・・・・

いろんな表情がそこに見えた。そして、それらの表情に沿った一つ一つのドラマが、

破片の数だけ存在しているような、なんとも賑やかな人間模様みたいなものを感じたのだ。

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そしてまた、それぞれが、無条件で自由奔放に好き勝手をしているような、そんなあっけらかんとした

気楽さが、正規品の立派で綺麗な長方形をしたブロックと比べ、割れてイビツになってしまったという

不幸?な出来事にも嘆くことなく、全ての境遇をあるがままに受け入れているようにも見える。

各々の形そのままで、あるがままの表情を見せているのだ。

そんな屈託のなさと、何からをも縛られていないという自由な雰囲気を

自分に対して、強烈に見せつけられているような気がしてならなかった。

そして、そうかと思うと、なんとも言えぬ穏やかな雰囲気に包まれる気がした。

なにかホッとするような・・・・安心感・・・・そして解放感。

だが、それらに包まれるようにして、対照的に自分の脳裏に浮かび上がってきたモノがあった。

普段自分が、何もかも画一的なものに囲まれて暮らす日々に、合理性や正確さ、安心といった

恩恵を感じながらも、同時に、それらと引き換えに途切れる事のない緊張感みたいなモノを

ずっと背負わされているような、安泰の背後にある見えない窮屈さ・・・・そんな感情が

不意に浮かんできたのだ。

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なぜ、そんな感情が浮かんできたのだろうか・・・?

少なくとも、その浮かんできた窮屈な感情によって、ブロックに対して感じた解放感の意味が

少し明確になった気がする。

それは、ブロック達の様々な表情に画一的な意図が何一つ感じないという事。

何の意図もなく自然の流れで、個々の顔を持つに至ったブロックの破片達が見せる

様々な表情には、何かの恩恵と引き換えに背負わされる重荷のような、取り引きめいたものが

一切感じないのだ。

 ここで、自分の感情の一連の流れを振り返ってみると、

ホッとするような安心感や解放感が、日常の窮屈さという感情を呼び覚ましたのではないか?

または、日頃、意識する事も無いような、日常に潜む窮屈さといった感情が、

自分の心の奥底にあり、それが、ブロックの破片達を前にした自分に

安心感や解放感を見させた~とも言えないだろうか?

もし、そうであれば、単純にどちらか一方を思えば、同時にもう一方の思いも立ち上がる~

という事をも意味しているのではないか?

実のところ、窮屈さを‘束縛や拘束’と言い表すならば、そのような感情は、

解放感という感情と表裏一体であるはずなのだ。

ちなみに、‘解放’の意味は、拘束から解かれる、または、束縛を解き放ち、

自由な行動を許すことである。

この事からもわかるように、解放を説明するには、拘束や束縛という感情の概念が必要に

なってくるのだ。

だとすると、自分がブロックの破片達を通して感じた、安心感や解放感と

同時に窮屈さ(拘束感・束縛感)の感情を覚えた事は、すんなりと腑に落ちる。

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つまりは、解放感という概念は、束縛感という概念が支えている。また逆もしかりで、

束縛感という概念は、解放感という概念がなければ、立ち上がらない存在であるのだ。

例えば、解放感をずっと気持ちよく感じていられるには、意識的であれ無意識的であれ

常に束縛感という概念が、解放感という感情を浮き彫りにしていてくれないと、成り立たないのだ。

だから、一方の感情が立ち上がれば、同時にもう一方の感情も立ち上がっているのだ。

どちらか一方だけの世界などと言うのは、思い過ごしのなにものでもない。

それぞれの感情は、それぞれが、独立したものではないのである。

つまりは、そのような表裏一体の感情に、常に心は忙(せわ)しなく

揺れ動かされているというわけだ。

だから?・・・・どうだと言うのだろう?

「そんな事をちまちま気にしてたら生きていけないよ。」

「束縛感があるから、解放を手に入れる為の原動力が生まれるのだし、

解放を手にしたら手にしたで、今度はそれを維持する為の原動力が沸いてくるものだ。

つまり、そういう事が明日を生きる活力となっていくんだよ。」

~という風に感じている人もいることだろう。

実際、そんな自分でさえも、そんな事を気にしたところで、感情は常に沸いてくるものだし、

感情とは、そういう性質のものなのだと分かった気がしただけでも、なんの支障もなく、

十分に生きていけると思うのだ。

しかし、ブロックの破片達を通して感じた解放感は、束縛感という感情を差し引いても、

尚、あまりある意味を持って、何かを自分に訴えかけているような気がしてならないのだ。

例えば、表裏一体の感情を行き来する事は、人間として当然なのかもしれないが、

同時にそれは、なにか感情のループというものに閉じ込められた、飛べない天使のような

煮え切らなさを感じてしまうのだ。

ならば、その煮え切らなさを、少しでも解消する事は出来ないだろうか。

例えば、感情のループに中心が存在するならば、その動かぬ中心にいればいいのでは?

ちなみに自分は、言葉遊びをしているつもりは全くない。

もし、グルグルと堂々巡りをする感情のループから、離れた別の場所が存在するならば、

是非ともその場所を知りたいのだ。

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ここで、天使の心境を手掛かりに考察してみたいと思う。

天使は、感情のループに一切タッチしない生き方をしている~と見て取れる。

何故なら、天使は心が軽い、自分に執着しない~から飛ぶ事が出来るというが、

それは、束縛感から浮かび上がる解放感、解放感から浮かび上がる束縛、拘束感などといった

表と裏、明と暗という自分の感情に心が揺れ動く事がないと言っているようなものだからだ。

自分に執着しないのだから、そのような自分の感情に対しても無関心であるはずなのだ。

それに、感情が行き来せずとも、どちらか一方という事もありえない。

それは感情への執着をも意味するからだ。

天使は、解放感に固執する事もないのである。

天使は執着心を持たないのだから・・・・。

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他にも、天使は心が軽いという表現がなされている。

ならば、こう思う。

解放感や束縛感といった、そのような感情の成り立ちを知っているからこそ、

表裏一体の感情に戸惑う事も、どちらか一方に執着するような事もなく、

そういうものから、ふわりと身をかわし、感情のループに付き合わない様子を

心が軽いと表現しているのではないか?

つまりそれは、重量でいうところの‘軽い’という事なのではなく、

感情のループから離れる事の出来る、軽い身のこなしを指しているのだと思うのだ。

言葉にすると簡単ではあるが、

天使とは、感情のループの外側、もしくは、それらとは関係のないところで

存在しているのだと思う。

・・・束縛のみならず、解放感からをも束縛を受けない、唯一無二の場所で。

 ~もしかしすると、ブロックの破片達はそんな場所を知っているのかもしれない。

または、ブロックの破片達そのものが、そんな場所にいる存在なのかもしれない~

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意識の境目①~

さて、これは何の写真でしょう?

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何か、白いモノが、ずら~っと並んでいます。

しんと静まり返ったような静寂さが、なんとなく荘厳な雰囲気を醸し出しているような・・・・

そして、妙に白いその色が、日本の神社や寺などで見られる神聖な雰囲気や

張り詰めた緊張感といったものを想起させるような・・・・

一つ一つを見れば、実に形が様々で、それらは、様々な形なりに太陽の光を

反射させている・・・・

・・・と、ちょと誇大くさい前置きは置いといて(笑)、

実はこれ、なんの事はない壊れたブロック塀の破片達です。

それらを集めて、一つ一つ洗い、そして白い塗料で塗ったものです。


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 ブロックと言えば、ブロック塀を代表として、BBQで釜戸を作るのに使われたり、

あるいは花壇に使われたり、物置や室外機などの下に敷いて、沈まないように台座にするなどして

使われたりもします。

そのようなブロックにスポットを当てて、注意深く街中を散策してみると、

至るところにブロックの存在を確認する事が出来る。 

一軒家を中心として、お店や工場などあらゆる場所で。

しかし、別に注意深く見なくとも、その場でグルリ360度見渡せば、必ずと言っていいほど、

ブロック塀あたりが、まず視界に飛び込んでくるはずだ。

それくらい、ありふれた身近にあるモノと言える存在なのだが・・・。

しかし、そこがミソなのだ。‘あまりにありふれている’からこそ、漠然と見ている風景に

溶け込んでしまい、逆に注意深く見なければ、その存在があらわになってこないのだ。

そういう類の事は、いくらでもある。

今回、そのブロックの、ある存在を通して感じた事を書きたいと思います。

 ~ところで皆さんは、使われているブロック、言い換えれば現役バリバリのブロックとは対照的に

壊れて欠けたりして、いびつになったブロックの存在を見た事はありますか?

いうなれば、不意の事故などで、ブロックとして現役を終えたモノ達の最終的な行き場です。

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まず、そのほとんどが、放置です。使い物にならないので、どこか隅っこの方へ追いやられます。

しかし、それら壊れたブロックは、たとえ割れて小さくなったとしても、

いびつな形の放つ存在感とそれなりの重量が放つ圧迫感が妙に目についてしまうので、

更に目のつかない所へ追いやられます。とにかくその存在が、視界から見えなくする事に

エネルギーが使われるのです。なので、それら壊れたブロックの存在は、

我々があまり目にする事のないような場所にひっそりと存在することになるのです。

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しかし、運のいいヤツは、水溜りの足の踏み場として使われたり、もっと細かく砕かれて、

ぬかるんだ所に砕石や砂利として撒かれたりするモノもいます。

そういうヤツらと比べたら、使われずに放置されてる類は、なんだか寂しそうな感じがします。

見えない所に追いやるといえば、大抵、日の射さない、じめじめとした薄暗い所が主ですので、

そんな壊れたブロック達は、コケをはやしながら、存在しているのに存在対象になってない、

中途半端な存在として、寂しげにいつまでもそこにじっとして、いるのです・・・・。

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 この前、長崎にある、父親の実家に行った際、庭先の手入れをしました。

普段、祖母一人ではとても手入れが行き届かず、鬱そうと生える草木に加え、

いたる所にゴミが散乱しており、それは荒れに荒れた様相でした。

それを男手三人で丸二日かけて片付けをし、綺麗にし直したのです。

あらかた雑草やゴミを取り除いた時点で、見ためにも十分スッキリしたように見えたのですが、

父親がこんな事を言い出しました。 

「~ブロックの破片が地面から顔を出してると、つまずく危険があるから、それらを撤去しよう」

「ブロックの破片?そんなものあったかなぁ?」と不思議に思い、あたりを見回してみましたが、

土(つち)以外ブロックの破片なんぞが顔を出しているといったような様子は

どこにも見受けられません。

が、しかし、よ~く目を凝らして見てみると、すぐ目の前にそのブロックの破片とやらが

埋まって顔を出してるではありませんか。それは、長年の間に泥が付着し、色が土と同化していて、

パッと見じゃなかなか分からないような状況でした。

ところが、次の瞬間には、それらは右にも左にも、更には斜め前方にも、

ひょっこり顔を出してるのが目に飛び込んできました。

そうなると今度はあら不思議!それらが降って湧いたかのように、庭中いたる所から、

顔を出しているのが見えるのである。あっちにもこっちにも、ここにもあそこにも、

四方八方あらゆるところに。

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・・・実は、昔、庭にブロック塀で作られた車庫があったらしく、それの残骸がいつの間にやら

庭のあちこちに散らばり、やがて土に少しずつ埋もれていったようです。

つまりは、それらブロック達の成れの果ての姿が、自分の視界の中に

突然現れるようになった・・・正にそんな感じでなのです。

・・・・さっきまで自分は一体「何を」見ていたのだろう・・・と実に不思議に思います。

しかし、このような経験は初めてではありません。

その都度、何かを認識する前と認識した後の自分の視界に広がる世界の変貌ぶりには、

自分の事ながら毎回驚かされます。

以前、マンションなどの外壁補修の仕事に携わったことがあるのですが、

特にタイルの壁面の補修に関して、事前に建物全体のタイルのクラック(ひび割れ)箇所を

全てチェックし、それを図面に書き記してから、それを基に補修作業へと入ります。

そのクラックをチェックする際、初心者だと目視でクラックを確認するのがなかなか難しい。

というより、どこにクラックがあるのかさえさっぱりわかりません。

どう見ても綺麗なままのタイルでしかないのだが、一旦クラックと言うものがどんな形状をしていて、

どんな色味を帯びているのかといったことを自分の目で確認すると、とたんにパッと目の前に

あらゆる所からクラックの存在が飛び込んでくるようになるのだ。

やはりこの時も、今の今まで自分は一体何を見てたのだろうと愕然とするぐらいの視界の変貌ぶりに

ビックリしてしまうのである。

普段、自分が目にしているほとんどのモノは、「自分は目にしている」と思っているだけで、

漠然と大雑把な認識でしか見ていないのだろうと思う。

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先ほどの、庭の至るところに埋もれているブロックの破片に関しては、認識する前は、

庭の土を漠然と‘土’として見ていただけであった。

意識の上でも、普段‘土’という言葉上イメージしている、茶色や黒色をしていて、

軟らかかったり固かったりする~ぐらいの範囲で認識していたに過ぎない。

だから、見えなかったのである。

実は、自分の目の前に広がる視界は、それこそ、あらゆる情報が常にあらわになっていて、

自分の目(視界)に触れてきているのかもしれない。

ひょっとしたら、視覚的要素にのみあらず、五感全てに訴えかけてきている事だって考えられる。

それが、ある瞬間を境に様々な形で自分の中に飛び込んでくるようになるのだ。

そうすると、自分の認識している世界の深みが、グッと増したような感じになる。

今まで、平面的にしか捉えていなかった世界が、急に立体的に立ち上がって、

あたかも次元が膨らだかのようにさえ思えてくるような、そんな変貌ぶりを覚えるのである。

例えば、山は山、海は海と、人によって認識の度合いというか、深さは違うのだろう。

普段、山に接する事が多い人は、そうじゃない人に比べたら、それ相応の認識の深さであるはずだ。

海に関してもそうだろう。人によっては、のっぺりとしたものに写る海の風景は、海が身近にある人に

とっては、それこそ立体的に海を捉えて見えているのだろう。

肌触りや匂いや、音などといった五感全てで感じる海を知っているという事だ。

 これらの事を通して、一つの事に対する認識に深みを増すキッカケとなった

自分の意識の境目を、今後も探っていこうと思っている。

そして、自分を取り巻く世界に対し、今一度、あらゆる角度から

新たな意識と新たな目で見直してみるのもいいのかもしれない。

意外と知ってる気になってる事(モノ)ほど、新たな認識に出会ってしまった際の衝撃は、

大なり小なり、自分の視界に映る認識の深さを、更に縦にも横にも広げる

破壊力を持っているかもしれない。

・・・・そういえば、クラックというのは、どんなに小さな亀裂であっても、その亀裂の溝に雨風を招き、

やがてはそれが、建物全体を崩壊させるほどの破壊力を秘めているものらしい。

だから、建物というのは、約10年周期で補修作業をしなくてはならないのだが、

もし、認識の浅さや凝り固まった先入観を破壊するほどの意識のクラックというのが存在するならば、

それが現れる条件がきっとあるはずだ。それは今回のような経験が大いにヒントになりそうであるし、

と同時にある意味それ自体が、意識のクラックとなりえるのではないか?とも思うのである。





追伸:本日、ブログ記事の為のメモを間違ってアップしてしまいました(汗)

    読んでも意味不明だった事と思われます・・・・。

    その事に気付くまでの間、かなりの数の閲覧記録がありましたので、

    慌てて削除いたしました。

    この場をお借りして、お詫びを申し上げたいと思います。

    恥ずかしながら、当方、かなりのおっちょこちょいです。笑って忘れて下さると・・・・幸いです。

    
   

 



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