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川と空に狭間無し

@個人制作_0806_03.jpg

この記事を書いてからアップするまで、気づいたら二週間が経ってしまいました・・・・。
みなさんのブログに遊びにも行けずじまいで・・・・
遅ればせながら、暑中お見舞い申し上げます!

元気でお過ごしでしょうか。もうしばらくすれば、秋の気配が感じられるようになるでしょう。
でも、気を緩めずに。猛暑のぶり返しなんてものが、ないとも限らないのでね☆

 先々週、学生時代の仲間たちと神奈川県にある中津川という川に遊びに行きました。
僕らは川の流れの緩るそうなところを探して、水上に仰向けになって浮いたまま、
頭上に広がる青い空を眺めながら、川と空の狭間でしばらくの間、プカプカと漂っていました。
川のゆったりとした流れ、そして空に浮かぶ雲の流れに身を委ねるのは、
何とも言えず心の底から気持ちがいい。
まるで、自分が川や空の雄大さに溶け込んでしまったかのような、そんな感じ。
もしくは、自分がいなくなってしまったようなとても不思議な感覚。

なんでこんなに気持ちがいいんだろう?

それは、自分の泳ぎに自信があり、恐怖感もなく安心して浮いていられるから・・・・ではない。
そんな自信なんか、さっさと自然を相手に木っ端微塵と粉砕されてしまった方がいい。
いくら流れの穏やかな所で浮いてるだけであろうと、油断は禁物である。
たまには流れの変化で頭から水をかぶる事だって当たり前のように起れば、
ついでにガボっと水を飲まされる事だってしょっちゅうある。
空に見とれ過ぎて、静かに隠れていた水中の大きな岩にふいにぶつかる事だって。
日の当たる箇所と日陰の箇所では、水温の差が激しい。
身を突き刺すような冷たさにふいに触れた瞬間、ビックリして思わず恐怖を感じることだってある。
僕らはその日、水しぶきの激しい急流の箇所を泳いで横断したりもしたが、
場合によっては、人間がどうこう出来るものではないと思い知らされたりもする。
思い知らされるばかりか、その事を振り返る間もなく即座に絶命に至る事だって、
どんな人間にも容赦なく起こりうるのだ。
それが自然とふれあおうとする人間の持つべき心構えというものなのだろう。

だけどね、それでも、気持ちがいいんだ。

それはやっぱりね、身を委ねてしまう気持ちよさなんだと思う。
でもね、心が感じるような気持ちよさとは違うんだ。
冒頭に述べたように、まるで自分が心もろとも溶けていなくなっちゃったような感じ。
だから、川と空の狭間に浮かぶ僕は、存在していないのと一緒なんだ。
「川」、「空」と区別をする人間が不在ならば、川や空との狭間も生じない。
そうするとね、ず~っと浮いていられるんだ。うまく言えないんだけどね☆

ちなみに浮くためには、人間が本来持っている浮力に身を任せることが条件だ。
身を任せるのは一体誰だ?もちろん自分自身なのだが、それは自分の心とも言えるだろう。
心が恐怖を感じて邪魔をしてたんじゃ、とても浮くことは出来ない。
それに恐怖におののく心は、呼吸までも強張らせてしまう。胸も萎縮させる。
固く浅い呼吸は、萎縮した胸の浮き袋に十分な浮力を与えてはくれない。
なら、思いっきり息を吸い込んで、胸をパンパンにすればいいってもんでもない。
そんな勢いで吸ったら、やっぱり体が強張ってしまうんだ。
だって、そんな不自然な呼吸を思いつくのは、紛れもなく恐れに満ちた心の仕業なんだしね。
いつもの穏やかな呼吸で十分なんだ。
(※ ちなみに余談ですが、僕は仕事の合間を見つけて、月に合計25kmから30kmほどの距離を
プールで泳ぎますが、突如として顔も水に付けられないほどに全く泳げなくなる時があります。
水に浸かるのでさえ、全身を締め付けられる思いで見る悪夢のようです。
どうしてそのような事態に陥るのかは、最近なんとなく分かりつつあるのですが、
恐らくは「水」そのものが、単純に怖いというわけではなさそうです。
心や精神的な部分が抱いている日常での恐怖が、象徴的に「水」という形を借りて、
僕に迫ってくるのだと思います。ですから、その恐怖に打ち克とうとすればするほど、
その反動で無意味に泳ぎの距離が増えていったと考えるのが妥当だと思っています。
そういった恐怖に辿り着き粉砕することが出来るのは、泳ぐスピードの向上や距離といった
ものではけっしてなく、”そのような恐怖は、実は存在しない”という事を本当の意味で
見破ること以外にないのでしょう。知識の範囲で解決しても意味がないのです。
今回の川遊びにおいて、何かを掴んだ気がしています。その事を通して、
自分の抱いている恐怖が一体何なのかを探っていこうと思っています。
おかしな話ですが、そういった意味では、僕は毎日が小さな冒険みたいものとなっていて、
そのような自分に翻弄させられる事も多いですが、とても充実しているのです☆)

                ※

~僕は一体どれだけの間、漂っていたのだろう。時間間隔さえも希薄になってしまう。
ふと、視線を空の景色から上流の方へと向けると、仲間が米粒ぐらいの大きさで見えた。
と同時に水中で腹の虫がなった。どうやら昼時の時刻らしい。
僕は我に返ったように、泳いで上流へと戻ろうとした。
だが、流れに逆らって進むのは容易ではなかった。
泳いでる最中、自分が溶けてしまったかのような、あの何ともいえない気持ちよさを思い出しながら、
視線の先にいる米粒大の仲間の姿を見ながら、こう思った。
あの感覚は、地上での日常生活においても、きっと同じことが言えるに違いないんだ・・・・。

ついには息も切れ、泳いで戻るのをほぼを諦めかけた時、
僕は再び下流に向かって漂うことにした。

平成二十三年 盛夏



※ この曲のPV、とても面白い作りになっています。様々な仕掛けがアナログ的に施されていて、
映像が無限に続いていく構成となっています。恐らくは切り張り無しの一発撮りで完成させている
と思われますが、それゆえ、心地のいい緊張感や生身の呼吸みたいなものが伝わってきます。
文字のオブジェを成立させるためのカメラのポジショニングやボーカルの歩くスピードが、
ギリギリのところで納まったりする感じは、ドミノ倒しやピタゴラスイッチを見るような感覚で
ついつい見入ってしまうほどです。
この構成を支えるスタッフの人たちが、画面の外側でどのように動き回っているのかも
思わず想像してしまいます。泥臭く動き回ってるんでしょうね~。いや、案外シンプルなのかな?
それにしても、このバンドのベース、カッコいいなぁ。

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とみっち

空をぷかぷか浮かぶ感じ、気持ち良さそう^^
by とみっち (2011-08-22 15:21) 

shio

お久しぶりです~♪すご~く待ってた(--)

地面が息を吐く時・・・空が息を吸うのね・・・その見えない手の平に上手く乗れると気持ちがいいわぁ~♪

水はね(><)泣いてる自分や怒ってる自分・・・暗く沈んだ自分を更に底の方に連れて行こうとするの・・・たまに溺れそうになるわ(><)

私もね漂っているのかな~って思ってたんだけどね神様が糸を付けてふざけてただけなのよ~いつ切られるか解らないから怖いわぁ~(><)

ちゃんと・・・あっ!修行!いかなくっちゃ(><)!


by shio (2011-08-22 18:35) 

t-youha

とみっちさん、こんにちは。
はい、気持ちよすぎて癖になってしまいそうなほどですよ☆
一見なにもないように思えますが、全てがあるような気分です。

by t-youha (2011-08-23 15:53) 

t-youha

shioさん、こんにちは。
>地面が息を吐く時・・・空が息を吸うのね・・・その見えない手の平に上手く乗れると気持ちがいいわぁ~♪

おお~!カッチョいい~!地球のビッグブレスを波乗りしてるようだぁ!
~人間の水分が、悲しみであふれ出たり、怒りで蒸発してしまったり、やっぱり人間と水とのかかわりは深いものがあるのでしょうね。
~神様に遊んでもらえるなんて、ある意味素敵なことじゃないですか?もし、糸が切られてしまうような不安から逃れたいのなら、自ら切ってしまうってのもありかも。少しぐらい神様を慌てさせてもいいかもよ(^^)でも、shioさんは、ちゃんと・・・・漂ってるでしょ。

あっやべっ!昨日の修行サボっちゃった・・・・
by t-youha (2011-08-23 16:02) 

RobertCole

自分が人間以外の何かと同化しているって感じる瞬間の感覚、好きです。
そういう時って、周りから見るとかなり危険な状態に見えるかもしれませんが(笑)。
委ねてみる勇気、みんなが持てるといいですね。
アルクアラウンド、楽しませてもらいました。
by RobertCole (2011-08-23 22:42) 

t-youha

RobertColeさん、お久しぶりです。
同化している感覚・・・やっぱり、そうですか☆
そういう感覚を何かしらの手段で表現している人達の様々な作品や姿を見る事は、実際はみんな好きなんじゃないのかなとも思うんですよ。世間の目から見れば、奇異に映るもの、危険な香りのするもの(笑)が、実は何故だか気になるといった感じで・・・・。きっとそれは、世間の目から離れたところの個人の目としての胸騒ぎというか、RobertColeさんの言う「委ねてみる勇気」の入り口でもあるんでしょうね。そしてこの事は、常に自分にも言えることでもあるんです。
by t-youha (2011-08-24 17:06) 

扶侶夢

空から上半身を出してポッカリと浮かんでいる図…気持ち良さそうですね。
思い切って身を委ねて一体化してしまえば、自分と対象との関係が変化して“差別の構造”が崩れてしまう。いわゆる対立関係や緊張感というやつが無くなってしまうのでしょうね。だからとてもフリーな気分になれて気持ちイイ。
この気持ちよさを表現する事って、とても重要なことかも知れませんね。
by 扶侶夢 (2011-08-24 20:34) 

t-youha

扶侶夢 さん、こんばんは!
なるほど、“差別の構造”ですか。もうこの際、やけっぱちでも何でもいいので、一人一人が「オレは(ワタシは)宇宙そのものだ!」ぐらいに感じてしまえば、全てが自分なのだから、全てに優しくなれるような気がしました☆。
 あれ?ほんとにそうなるのかな^^;?・・・と、それはさておき、僕は、あの気持ちよさの感覚がグッと身近なところ(日常生活)においても同じように感じることが出来るように思っていますし、もっと膨らんで宇宙そのものを感じる事もできるんじゃないのかなぁとも思っています。日常と宇宙が直結したとてもシンプルな構造、または、扶侶夢さんの言葉を借りれば、全ての「成り立ち」といったものが、日常の人間社会においても身近に感じていられる世の中になったらいいなぁと思いますね。


by t-youha (2011-08-24 21:25) 

扶侶夢

こんばんは。元気そうで何よりです、t-youha さん。

様々なモノの「成り立ち」といったものが身近に感じられる社会なら、人々の顔は安心と信頼に充ちている事だろうと思います。
by 扶侶夢 (2011-08-24 22:33) 

t-youha

扶侶夢さんのコメント、これ以上ないというほどの希望に満ちた言葉に思えました。
by t-youha (2011-08-25 00:00) 

Pacific_Ocean

おはようございます。 ご訪問ありがとうございました。
by Pacific_Ocean (2011-08-25 07:50) 

kakasisannpo

自然でも人でも
何かに同化してしまうことができるとしたら
何だか心地よさを通り越してしまうのでしょうね

それには、やはり修行ですか。
by kakasisannpo (2011-08-25 10:46) 

t-youha

Pacific_Ocean さん、こちらこそありがとうございました。

by t-youha (2011-08-26 05:11) 

t-youha

kakasisannpoさん、おはようございます。
心地よさを通り越してしまうような境地って、人それぞれあるんだと思います。その人が、無条件で夢中になれるような事などは、それに値する経験をしている事が多いのではないでしょうか。そういった意味では、子供の頃の遠い記憶に触れてみるのも、そういった境地にアクセスできる一つの方法かと思ってます。
by t-youha (2011-08-26 05:27) 

るちまる

おはようございます^^

身を任せるって、本能的に危険な状態だと
認識してるような気がします。
自己と外界(あるいは他者)との境目が薄くなり、
自己の存在が失われる可能性も含まれて
いるのかな、と・・・。
by るちまる (2011-08-30 07:26) 

toki

涼しそうな絵ですね。
私も浮かんでみたい!!

by toki (2011-08-31 17:56) 

t-youha

るちまるさん、こんばんは☆

とても興味深いコメントに感じました^^
自己と外界という言葉を用いるなら、自己が外界を見つめ、何かを感じ取り、それを何らかの形で表現してみたいと思う自己がいるのですが、
その事を踏まえれば、外界を見つめる自己と外界との距離感が縮まれば縮まるほど、もっと深いところで外界の何かを感じ取れるんじゃないかと思っていました。

しかしながら、自己が、自己と外界という区別をしている以上、その距離感は永遠に縮まらないとも思いました。外界の姿、特に自然界の姿を見つめれば見つめるほど、その思いは強くなりつつあります。

外界の何かを知るには、自己が自己の死(区別したがる根源の消滅)をもって、外界に溶け込むしかないのではないだろうか?とさえ思うのです。
その時初めて、自分も自然界の一部であり、全てを知っていて、本能的な危険と本能的な生の喜びを実感できるのではないだろうか?と思っています。
by t-youha (2011-09-01 00:38) 

t-youha

toki さん、こんばんは☆

突拍子もない思いつきなのですが、「浮かんでみたい!」と思うその気持ちこそが、浮かぶことを阻む原因のひとつと考えるのはどうでしょう?^^;

toki さんも、すでに浮かんでいるんですよ☆
by t-youha (2011-09-01 00:47) 

扶侶夢

お邪魔しま~す!t-youha さん。
コメント拝見していて、09-01の亀レスですけれどお許し下さい^^

>外界の何かを知るには、自己が自己の死(区別したがる根源の消滅)をもって、外界に溶け込むしかないのではないだろうか?とさえ思うのです。

全くの同感で、私も常々思っている事です。私は近頃さらに発展させて、「次元を超えた見方」をしてみたいと…取り組んでいます(笑)
これって殆ど不可能に近いんですけれど、所詮三次元からは抜け出せない人間の、最後の挑戦じゃないか知らん?

「自分が二次元に暮らしていたら、世界がどんなに見えるんだろうか?
四次元から三次元はどう見える(感じる)んだろうか?」
最大限に神経を集中させれば、その欠片(カケラ)くらいはチラッと見えるんじゃないか…なんて期待している私です(爆)
by 扶侶夢 (2011-09-10 07:41) 

t-youha

扶侶夢さん、こんにちは!

いやぁ~、うれしいですよ。コメントは、時系列に関係なく大歓迎です。
(↑その割には、チェックがマメではないような....)という突っ込みは、お許しください^^;

僕もですね、訪問したブログ先でコメントのやり取りを拝見したりすることがあるのですが、そこから見えてくるブログオーナーの何気ない一言や感性におぉ!と引き込まれることがあるんですよね。そういう時は、扶侶夢さん風に「お邪魔しま~す!」と言ってコメント残そうかなぁ☆

~それはそうと、異次元ときましたか^^!
三次元から見る異次元、異次元から見る三次元・・・・その発想たるや、なるほどと思うのを通り越して、息を呑むほどの緊迫感を感じてしまうほどです。でも、扶侶夢さんのコメントの文面を見ると肩の力が程よく抜けた、ラフな感じで語られている様子が、その挑戦に対する未来へのいい予感を感じます。こういったコメントに触れることが出来た自分もまた、視界が広がるのを感じます☆


by t-youha (2011-09-11 15:09) 

扶侶夢

こんばんわ、t-youha さん。

私もブログに対しては、もちろん写真や絵画などの作品を視覚的に楽しみますが、同時にコメントからブログオーナーの人柄や考えを推察したり、また様々な気づきや発見があったりして、とても大切な要素に思っています。
by 扶侶夢 (2011-09-14 21:19) 

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