神鳴りの来訪~後編(長文):①
「神鳴リ~前編」からの続き~
~「病気や事故で死の淵を彷徨い、九死に一生を得た人の生への喜びや実感、
神秘的な体験といったものが語られるのをたまに目にする事があるが、
僕の場合はそういった、自分が生きていた事に対する喜びというものが、
全く無かったわけではないのだが、自然の脅威というものを目の当たりにして、
”自分は何者でもなかった”という
例えようのないほどの衝撃の方が、生きていた喜びを差し置いて強かったように思う。
ところがその事こそが、自分の生への喜びをよりいっそう強く実感するに至る
とても大切な要素であったのだと確信する。
それは今も尚、そしてこれから先の自分の生(命)においても、
とても重要な事として受け止めている。」~
落雷のあった翌朝、現場では緊急ミーティングが行われ、雷に対する危険予知の徹底が促された。
どうやらあの落雷は、外壁の足場も伝ってきたらしく、数人の職人が感電したが、
手に少しのやけどを負った程度で大事には至らなかった。
自分はというと、一夜明ければスーパーマンのような超人に生まれ変わっていて・・・・
なんていう事はなく、まるで何事もなかったかのように怪我をした箇所も見当たらなければ、
体のどこかに変調をきたしたというような自覚もなかった。
強いて言うならば、体の内部が妙にざわざわというか、ふわふわというか
妙な感覚が残っていて気味が悪いなといった程度であった。
落雷のあった当日、あの時の状況を一応は監督連中に報告しておいたのだが、
自分でも一体なにがどうしてどうなったかなんて事をうまく説明する術もなく、
雷は建物に直撃したという大まかな見解で事は落ち着いたのだった。
後日、雷に関して色々調べると、落雷には直接受ける直撃雷と自分のそばに雷が落ちて
放電をくらう側撃雷とがあるらしいが、直撃雷に打たれても生きている人もいれば、
側撃雷に打たれて死ぬ人もいる。
実は、落雷に遭って死傷するケースのほとんどが、側撃雷によるものらしい。
そのように考えれば、自分は無傷でよく生きていられたなと思う面は確かにある。
「どうして僕は助かったのだろうか?」
あの時、三途の川を渡らずに引き返したとか、光に導かれるままに進んでいったとか、
普段の行いが良かったからだとか、何か特殊な信仰心を持っていたからとか、
電気に強い特異体質だったからだとか、雷と戦って勝ったからだとか、
打たれた時の服装や姿勢などの様々な好条件がそろっていたからとか、
自分が無事であった事に対する、思いつく限りのそのようなよくある手がかりは何一つ
自分に当てはまるところはないし、それならそれで助かった理由をつきとめたいと思う気持ちも
実のところさらさら無く、そんな事は自分の人生によっぽど退屈を感じた時にすればいいや
ぐらいにしか思っていないのだ。
※
※
※
ところで、人は、何かのきっかけで自分という存在の感覚を見失ってしまうことがあるらしい。
それはともすれば、とても恐ろしいことでもあるのだ。
人は皆、自分が誕生した日や名前、性別を持ち、生い立ちといった過程の中で築かれていった
性格やそれにまつわる長所短所、好き嫌い、そして様々な思い出や夢などを持っている。
やがて成人を迎える頃、自分なりの意見や、自分が何者かを表す肩書きといったものを
世間に対して明確に持ち始める。
キミはどんな人?と聞かれて、こういう者ですと説明して、
そうして初めて自分という存在感が、社会という輪の中で立ち上がるのだ。
組織の中で大切な業務を任される自分、世間に何らかの評価をしてもらえる自分、
異性から告白される自分、こうしたらどうか?こんなアイデアはどうか?と発言する自分、
君は優しいねと言われる自分、自分のこういうところは他人に負けないなと思える自分、
ガマンが足りないねと注意される自分、ちょっと人より収入が低いなと思う自分、
人から羨ましがられる自分・・・・・
人の数だけ、その輪の中で立ち上がる自分という存在感があるわけだ。
だが、その存在感というものは、自分の存在を認めてもらえる輪の中において、
常に自分は孤立したくないといった不安や恐怖を同時に抱いている。
当然ながら、大きな意味で社会というものからの疎外、抹殺は、
自分という存在感の消滅を意味し、同時にそれは、自分の命を奪われたに等しいほどの
死にも直結した最大の恐怖をも意味する。
たとえば記憶喪失といったものも、自分の存在感を社会の輪の中に失った事による
疎外感や孤独感といった死を連想させる恐怖の一種であるかもしれない。
ところが、それにちなんだ話で、人は自分の存在感(自己同一性またはアイデンティティー)
といったものが欠落してしまっても、その事自体が自分の命を脅かすものにはならないと
思えるような話がいくつか思い浮かぶ。
たとえば、以前観たある映画(題名は忘れた)で、主人公が記憶喪失になり苦悩に陥る中、
その主人公とその父親とで交わされる会話をなんとなく思い出す。
父:「君は何がほしい(したい)?」
主人公:「記憶を取り戻したい」
父:「なら、動くのだ。自分の価値(存在)を決めるのは記憶ではない。行動だ。」
他にもうろ覚えであるが、以下のような映画を観たことがある。
5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。
どうやらその5人は、お互い激しい乱闘を繰り広げる最中、
何かの拍子で皆、記憶の喪失と共に気を失ってしまったらしい。
物語が進むにつれ、どうやら、そのうちの2人は誘拐犯であり、
残る3人は誘拐された側の人質であるという事が判明する。
だが、そうとは分かっても自分は誘拐犯なのか、さらわれた人間の側なのか全く検討がつかない。
物語は進み、誘拐犯のボスが相手先との身代金の交渉に失敗したことを知る。
ボスが帰ってくれば、人質は殺されるという展開に・・・・。
皆、絶望感に包まれる。
おまけにその建物は、人質を閉じ込めておけるように簡単には出られない仕組みになっており、
どのようにすれば脱出できるのかも誰一人記憶にない。
もし自分が人質ならば殺されてしまうという恐怖と
いまだ自分は何者なのか分からないという二つの恐怖。
鏡に映る自分の顔を見るといかにも悪そうな顔をしてる。
ひょっとして、自分が誘拐犯なんじゃないかと思い悩む者もいれば、
何の根拠もなく俺は人質に違いないと思い込み、殺される恐怖に震える者もいる。
誰が敵で誰が見方なのか、それを判断する術は失った記憶の中に閉じ込められているのだ。
やられる前にやってしまおうか・・・・だが、そんな事に気をとられている余裕はなかったのだ。
やがて、記憶を失くした者同士にとっては、敵も見方もないという思いが、皆を一つにまとめ始める。
彼らは、全員で力を合わせて、その建物から何とか脱出することを目指した。
~といった具合である。
この話をヒントに、ひょっとしたら人間っていうのは、小難しくもなんともなく、
思ってる以上に実はとてもシンプルな生き物なんじゃないかと思えたりはしないだろうか?
自分が何者であるのかが抜け落ちてしまったら、残るのは自分の命ある姿だけだ。
そこで初めて、社会からの疎外感という死を連想させる恐怖というものが、
実際には自分の命を脅かすほどの威力も何もないと見破る事ができるだろう。
われが何者かという事は、人が行動する(生きる)うえで絶対的に必要な条件なのであろうか?
われが何者かという事は、人と人とが交流するうえで絶対に欠かせない要素なのであろうか?
われは何者かにならなければ・・・・それは死を意味するのだろうか?
人間社会の中で感じている自分という存在は、その輪の中から疎外される恐怖と共に
自分の命というものさえ脅かされるような得体の知れない恐怖に戦いている。
それらを踏まえて考えれば、ある意味、自分という存在感は社会の中でこそ立派に立ち上がる
”確か”な存在のようにも思えるのだが、実は常に危ういところでその消滅の危機に脅かされ、
社会(世間)と懸命に折り合いをつけながら必死に自分という物語を作り続ける事によってのみ、
その自分という存在の確かさが保たれるという、
自然界の自立した存在とは無縁の、どこまでも作り物の悲しい宿命を背負わされた
擬似的存在、または擬似的な生命のようにさえ思えてくる。
そういうものに対して、なぜ、自分の存在感の拠り所としてしがみついたり、
かつ、そこからの消滅の恐怖に怯えなくてはならないのだろうか?
ちなみに年間3万人を超えるほどの人々が自殺/自死にて自らの命を絶つというが、
その中には、自分の存在感を立ち上がらせてくれるはずの社会の輪から、
歓迎もされずに疎外され、生きることが辛くなったとして死に至った人がどれだけいるだろう。
生きていながら、自分の存在感をも与えてもらえず、孤独に染まる悲しみ、恐怖。
それならそうと、その社会の中で自分の存在を自らの手で頑張って必死に見出そうとするが、
自分のすがる社会の中には自分を照らしてくれるものが、ついには見当たらず、
自己の存在の消滅と共に自分の命の幕をも閉じる。
自分という存在感は、社会を拠り所としなければ、成り立たない側面を持っており、
その社会からこぼれてしまった自己という存在は、たちまち拠り所を失くし、
生きていながらにして浮遊する幽霊のごとく暗黒の世界を彷徨う事になるのだ。
そんな恐ろしい世界でもがき苦しむ人々に対して、
生きる力を見出せなどと一体誰が言えるだろう?
そんな君も明日は自分の番じゃないだろうかと心のどこかで怯えているはずだ。
だが、これだけは言える。
我々一人一人が感じている社会の中の自分という存在感を何らかの形で、
見失ってしまう事があっても、それは君の命さえも脅かすほどの恐怖ではないという事を。
もしかしたら僕は間違ってるかもしれないが、
我々が感じる社会の輪の中での存在感(アイデンティティー)というものは、
決して自分の命に根ざしたものではない・・・と言いたい。
仮に多額の借金を背負ってしまい、希望も失くし生きるのが辛いと感じる人がいるならば、
そう感じるのは社会の中の自分であって、決して君の命が発する問題なのではない。
借金を抱えて苦しむために生まれてきた命なんてどこにあるというのだろう?
君がいじめに遭い、社会から抹殺されるように君の存在を無視され、
苦しくて苦しくてたまらないと感じるのも社会の中においての自分という存在である。
だがそれは、君の命の存在とは全く関係がないものだ。
君の命は、いじめられるために生まれてきたのではない。
君の命は、無視されるために誕生したのではない。
その肝心なところを社会の中で生きる一人一人が見失ってはならない。
社会など所詮作り物なのである。
その社会の中で立ち上がる自分という存在感もまた、嘘っぱちの作り物である。
作り物に己の命をあずけてはならない。
君の命は、決して作り物じゃないのだ・・・・。
君の命はどんなに苦しい局面を迎えようともそれが尽きるまで、眩しく輝いていると僕は言いきる。
なぜなら、君の命の存在は、この社会が照らしてくれなくとも、
宇宙の成り立ちという巨大な輪が、君の命の誕生から現在、そしてそれが尽きるまで、
無条件で照らしてくれているからだ。
そもそも命そのものに生きる意味なんてものはない。
生きがいを求める命なんてものもないのだ。
命ある、ただそれだけで君が生きている意味があるのだから。
人間は人間だけの世界を築き、それを拠り所にし過ぎてしまったと同時に
その世界を守りすぎてしまった。
だが、その世界こそが、全てでないという事を一人一人が思い出さなくてはならない。
その世界にこそ、君が君の存在感の拠り所とする何かがあると勘違いしてはならない。
社会の中で叫ばれる生きがいや生きる意味、自分は何者なのだろうか?という問いは、
宇宙の成り立ちから遠く離れてしまった人間同士の退屈しのぎな遊びぐらいに思えばいい。
そしてまた、人間社会においての自分という存在感もまた、
宇宙の成り立ちから孤立してしまった事による孤独感や寂しさを紛らわすための
僕ら一人一人のささやかな自尊の気持ち~ぐらいに思っていればいい。
そうして思えば、君の存在感というものは人間社会の輪よりもっともっと大きな輪の中で、
それが命尽きるまで堂々と光り輝いているという事に気づくことだろう。
そして、自分の命の輝きという確かな道標を手にした君は、
人間社会の輪の中にあろうとも、必要以上に惑うこともなく、喜びや悲しみ、
楽しい事も苦しいことも含めた、君の人生においての全ての物語を
本当の意味で謳歌できるものと信じている。
※
※
実は、自分もまた、自分自身が身を置く社会の中で、自分の存在感というものに
全てを委ねるようにして生きてきました。
この社会においての自分という存在感、それこそが、この世で唯一の確かなもの・・・と
思っていました。
この上ない喜びも経験しました。どん底にて絶望の淵を彷徨い、
死にたいと思うほどの苦しみも経験しました。
他の人と同様に、自分もまたきっと特別な存在なんだと思えるような感覚にこそ、
生きる意味というものを感じ、そこに生きがいを見出してきました。
競争もいっぱいしました。負けて悔しいと思ったり、勝ってうれしいと思ったりもしました。
嘘をついて人を騙したりもしました。
騙されるやつも悪いと感じたりもしました。自分は騙されはしないと勘違いもしました。
ささやかな夢を叶えた事もありました。激しく恋愛をした事もありました。
いろいろと警察に捕まった事もありました。
ゴミを指定された日以外に出すと猫やカラスが喜ぶという事も知りました。
人込みを歩いていて、じゃまだじゃまだと思う事や、前を歩く人をとろいなぁと感じる事も
ありました。しかし、じゃまに思う人やとろいと思う人も自分が作り出しているんだなと
感じる事もありました。
空を見てるとほんとに気持ちいいなと感じる時がありました。
自分もまたそのように、社会にはとにかく色んな事を経験させてもらっているわけですが、
しかし、誤解を恐れずに言えば、そういう自分の存在感のみに根ざした生き方の中で感じる
喜びや悲しみ、辛さや苦しさというものは、必要以上にそれ以下でもそれ以上のものでも
ありません。
何をわかったふりなんかしやがって・・・・と思われるかもしれない。
しかしたとえ、これら自分の感じた事のほとんどが勘違いであったとしても、
少なくとも自ら死ななきゃならないような悲しみや苦しみ、恐怖なんてものはこの世にありません。
それらは、本当の意味での”命”に根ざした生きる喜びや悲しみ、苦しみといったものとは程遠い、
もしくは全く無縁の作りものであると確信します。
その思いは、自分があの時、落雷に遭ったあの瞬間、
自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃に由来するものです。
※
※
(※ 自分の命という表現にはとても神経を使います。ここで述べる”自分の”という表現は、
”全ての命と繋がっている”という感覚のもとでの”自分の”という意味です。
決して人間社会で言うところの”自分だけの”という感覚の意味ではありません。
~今回、色々と書き記したいことが山のようにあり過ぎて、まとめ切れない事態に陥りました。
このタイトルで延々と書き続けるのもアリなのですが・・・・・。
次を~後半②として、このタイトル記事を完結させるつもりでいますが、
書ききれなかった分は、少なくとも今後の記事に何らかの形で反映していこうと思っています。
長文・駄文、失礼!長々と貴重な時間を割いてくださり、どうもありがとうございました。
t-youha)
~「病気や事故で死の淵を彷徨い、九死に一生を得た人の生への喜びや実感、
神秘的な体験といったものが語られるのをたまに目にする事があるが、
僕の場合はそういった、自分が生きていた事に対する喜びというものが、
全く無かったわけではないのだが、自然の脅威というものを目の当たりにして、
”自分は何者でもなかった”という
例えようのないほどの衝撃の方が、生きていた喜びを差し置いて強かったように思う。
ところがその事こそが、自分の生への喜びをよりいっそう強く実感するに至る
とても大切な要素であったのだと確信する。
それは今も尚、そしてこれから先の自分の生(命)においても、
とても重要な事として受け止めている。」~
落雷のあった翌朝、現場では緊急ミーティングが行われ、雷に対する危険予知の徹底が促された。
どうやらあの落雷は、外壁の足場も伝ってきたらしく、数人の職人が感電したが、
手に少しのやけどを負った程度で大事には至らなかった。
自分はというと、一夜明ければスーパーマンのような超人に生まれ変わっていて・・・・
なんていう事はなく、まるで何事もなかったかのように怪我をした箇所も見当たらなければ、
体のどこかに変調をきたしたというような自覚もなかった。
強いて言うならば、体の内部が妙にざわざわというか、ふわふわというか
妙な感覚が残っていて気味が悪いなといった程度であった。
落雷のあった当日、あの時の状況を一応は監督連中に報告しておいたのだが、
自分でも一体なにがどうしてどうなったかなんて事をうまく説明する術もなく、
雷は建物に直撃したという大まかな見解で事は落ち着いたのだった。
後日、雷に関して色々調べると、落雷には直接受ける直撃雷と自分のそばに雷が落ちて
放電をくらう側撃雷とがあるらしいが、直撃雷に打たれても生きている人もいれば、
側撃雷に打たれて死ぬ人もいる。
実は、落雷に遭って死傷するケースのほとんどが、側撃雷によるものらしい。
そのように考えれば、自分は無傷でよく生きていられたなと思う面は確かにある。
「どうして僕は助かったのだろうか?」
あの時、三途の川を渡らずに引き返したとか、光に導かれるままに進んでいったとか、
普段の行いが良かったからだとか、何か特殊な信仰心を持っていたからとか、
電気に強い特異体質だったからだとか、雷と戦って勝ったからだとか、
打たれた時の服装や姿勢などの様々な好条件がそろっていたからとか、
自分が無事であった事に対する、思いつく限りのそのようなよくある手がかりは何一つ
自分に当てはまるところはないし、それならそれで助かった理由をつきとめたいと思う気持ちも
実のところさらさら無く、そんな事は自分の人生によっぽど退屈を感じた時にすればいいや
ぐらいにしか思っていないのだ。
※
※
※
ところで、人は、何かのきっかけで自分という存在の感覚を見失ってしまうことがあるらしい。
それはともすれば、とても恐ろしいことでもあるのだ。
人は皆、自分が誕生した日や名前、性別を持ち、生い立ちといった過程の中で築かれていった
性格やそれにまつわる長所短所、好き嫌い、そして様々な思い出や夢などを持っている。
やがて成人を迎える頃、自分なりの意見や、自分が何者かを表す肩書きといったものを
世間に対して明確に持ち始める。
キミはどんな人?と聞かれて、こういう者ですと説明して、
そうして初めて自分という存在感が、社会という輪の中で立ち上がるのだ。
組織の中で大切な業務を任される自分、世間に何らかの評価をしてもらえる自分、
異性から告白される自分、こうしたらどうか?こんなアイデアはどうか?と発言する自分、
君は優しいねと言われる自分、自分のこういうところは他人に負けないなと思える自分、
ガマンが足りないねと注意される自分、ちょっと人より収入が低いなと思う自分、
人から羨ましがられる自分・・・・・
人の数だけ、その輪の中で立ち上がる自分という存在感があるわけだ。
だが、その存在感というものは、自分の存在を認めてもらえる輪の中において、
常に自分は孤立したくないといった不安や恐怖を同時に抱いている。
当然ながら、大きな意味で社会というものからの疎外、抹殺は、
自分という存在感の消滅を意味し、同時にそれは、自分の命を奪われたに等しいほどの
死にも直結した最大の恐怖をも意味する。
たとえば記憶喪失といったものも、自分の存在感を社会の輪の中に失った事による
疎外感や孤独感といった死を連想させる恐怖の一種であるかもしれない。
ところが、それにちなんだ話で、人は自分の存在感(自己同一性またはアイデンティティー)
といったものが欠落してしまっても、その事自体が自分の命を脅かすものにはならないと
思えるような話がいくつか思い浮かぶ。
たとえば、以前観たある映画(題名は忘れた)で、主人公が記憶喪失になり苦悩に陥る中、
その主人公とその父親とで交わされる会話をなんとなく思い出す。
父:「君は何がほしい(したい)?」
主人公:「記憶を取り戻したい」
父:「なら、動くのだ。自分の価値(存在)を決めるのは記憶ではない。行動だ。」
他にもうろ覚えであるが、以下のような映画を観たことがある。
5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。
どうやらその5人は、お互い激しい乱闘を繰り広げる最中、
何かの拍子で皆、記憶の喪失と共に気を失ってしまったらしい。
物語が進むにつれ、どうやら、そのうちの2人は誘拐犯であり、
残る3人は誘拐された側の人質であるという事が判明する。
だが、そうとは分かっても自分は誘拐犯なのか、さらわれた人間の側なのか全く検討がつかない。
物語は進み、誘拐犯のボスが相手先との身代金の交渉に失敗したことを知る。
ボスが帰ってくれば、人質は殺されるという展開に・・・・。
皆、絶望感に包まれる。
おまけにその建物は、人質を閉じ込めておけるように簡単には出られない仕組みになっており、
どのようにすれば脱出できるのかも誰一人記憶にない。
もし自分が人質ならば殺されてしまうという恐怖と
いまだ自分は何者なのか分からないという二つの恐怖。
鏡に映る自分の顔を見るといかにも悪そうな顔をしてる。
ひょっとして、自分が誘拐犯なんじゃないかと思い悩む者もいれば、
何の根拠もなく俺は人質に違いないと思い込み、殺される恐怖に震える者もいる。
誰が敵で誰が見方なのか、それを判断する術は失った記憶の中に閉じ込められているのだ。
やられる前にやってしまおうか・・・・だが、そんな事に気をとられている余裕はなかったのだ。
やがて、記憶を失くした者同士にとっては、敵も見方もないという思いが、皆を一つにまとめ始める。
彼らは、全員で力を合わせて、その建物から何とか脱出することを目指した。
~といった具合である。
この話をヒントに、ひょっとしたら人間っていうのは、小難しくもなんともなく、
思ってる以上に実はとてもシンプルな生き物なんじゃないかと思えたりはしないだろうか?
自分が何者であるのかが抜け落ちてしまったら、残るのは自分の命ある姿だけだ。
そこで初めて、社会からの疎外感という死を連想させる恐怖というものが、
実際には自分の命を脅かすほどの威力も何もないと見破る事ができるだろう。
われが何者かという事は、人が行動する(生きる)うえで絶対的に必要な条件なのであろうか?
われが何者かという事は、人と人とが交流するうえで絶対に欠かせない要素なのであろうか?
われは何者かにならなければ・・・・それは死を意味するのだろうか?
人間社会の中で感じている自分という存在は、その輪の中から疎外される恐怖と共に
自分の命というものさえ脅かされるような得体の知れない恐怖に戦いている。
それらを踏まえて考えれば、ある意味、自分という存在感は社会の中でこそ立派に立ち上がる
”確か”な存在のようにも思えるのだが、実は常に危ういところでその消滅の危機に脅かされ、
社会(世間)と懸命に折り合いをつけながら必死に自分という物語を作り続ける事によってのみ、
その自分という存在の確かさが保たれるという、
自然界の自立した存在とは無縁の、どこまでも作り物の悲しい宿命を背負わされた
擬似的存在、または擬似的な生命のようにさえ思えてくる。
そういうものに対して、なぜ、自分の存在感の拠り所としてしがみついたり、
かつ、そこからの消滅の恐怖に怯えなくてはならないのだろうか?
ちなみに年間3万人を超えるほどの人々が自殺/自死にて自らの命を絶つというが、
その中には、自分の存在感を立ち上がらせてくれるはずの社会の輪から、
歓迎もされずに疎外され、生きることが辛くなったとして死に至った人がどれだけいるだろう。
生きていながら、自分の存在感をも与えてもらえず、孤独に染まる悲しみ、恐怖。
それならそうと、その社会の中で自分の存在を自らの手で頑張って必死に見出そうとするが、
自分のすがる社会の中には自分を照らしてくれるものが、ついには見当たらず、
自己の存在の消滅と共に自分の命の幕をも閉じる。
自分という存在感は、社会を拠り所としなければ、成り立たない側面を持っており、
その社会からこぼれてしまった自己という存在は、たちまち拠り所を失くし、
生きていながらにして浮遊する幽霊のごとく暗黒の世界を彷徨う事になるのだ。
そんな恐ろしい世界でもがき苦しむ人々に対して、
生きる力を見出せなどと一体誰が言えるだろう?
そんな君も明日は自分の番じゃないだろうかと心のどこかで怯えているはずだ。
だが、これだけは言える。
我々一人一人が感じている社会の中の自分という存在感を何らかの形で、
見失ってしまう事があっても、それは君の命さえも脅かすほどの恐怖ではないという事を。
もしかしたら僕は間違ってるかもしれないが、
我々が感じる社会の輪の中での存在感(アイデンティティー)というものは、
決して自分の命に根ざしたものではない・・・と言いたい。
仮に多額の借金を背負ってしまい、希望も失くし生きるのが辛いと感じる人がいるならば、
そう感じるのは社会の中の自分であって、決して君の命が発する問題なのではない。
借金を抱えて苦しむために生まれてきた命なんてどこにあるというのだろう?
君がいじめに遭い、社会から抹殺されるように君の存在を無視され、
苦しくて苦しくてたまらないと感じるのも社会の中においての自分という存在である。
だがそれは、君の命の存在とは全く関係がないものだ。
君の命は、いじめられるために生まれてきたのではない。
君の命は、無視されるために誕生したのではない。
その肝心なところを社会の中で生きる一人一人が見失ってはならない。
社会など所詮作り物なのである。
その社会の中で立ち上がる自分という存在感もまた、嘘っぱちの作り物である。
作り物に己の命をあずけてはならない。
君の命は、決して作り物じゃないのだ・・・・。
君の命はどんなに苦しい局面を迎えようともそれが尽きるまで、眩しく輝いていると僕は言いきる。
なぜなら、君の命の存在は、この社会が照らしてくれなくとも、
宇宙の成り立ちという巨大な輪が、君の命の誕生から現在、そしてそれが尽きるまで、
無条件で照らしてくれているからだ。
そもそも命そのものに生きる意味なんてものはない。
生きがいを求める命なんてものもないのだ。
命ある、ただそれだけで君が生きている意味があるのだから。
人間は人間だけの世界を築き、それを拠り所にし過ぎてしまったと同時に
その世界を守りすぎてしまった。
だが、その世界こそが、全てでないという事を一人一人が思い出さなくてはならない。
その世界にこそ、君が君の存在感の拠り所とする何かがあると勘違いしてはならない。
社会の中で叫ばれる生きがいや生きる意味、自分は何者なのだろうか?という問いは、
宇宙の成り立ちから遠く離れてしまった人間同士の退屈しのぎな遊びぐらいに思えばいい。
そしてまた、人間社会においての自分という存在感もまた、
宇宙の成り立ちから孤立してしまった事による孤独感や寂しさを紛らわすための
僕ら一人一人のささやかな自尊の気持ち~ぐらいに思っていればいい。
そうして思えば、君の存在感というものは人間社会の輪よりもっともっと大きな輪の中で、
それが命尽きるまで堂々と光り輝いているという事に気づくことだろう。
そして、自分の命の輝きという確かな道標を手にした君は、
人間社会の輪の中にあろうとも、必要以上に惑うこともなく、喜びや悲しみ、
楽しい事も苦しいことも含めた、君の人生においての全ての物語を
本当の意味で謳歌できるものと信じている。
※
※
実は、自分もまた、自分自身が身を置く社会の中で、自分の存在感というものに
全てを委ねるようにして生きてきました。
この社会においての自分という存在感、それこそが、この世で唯一の確かなもの・・・と
思っていました。
この上ない喜びも経験しました。どん底にて絶望の淵を彷徨い、
死にたいと思うほどの苦しみも経験しました。
他の人と同様に、自分もまたきっと特別な存在なんだと思えるような感覚にこそ、
生きる意味というものを感じ、そこに生きがいを見出してきました。
競争もいっぱいしました。負けて悔しいと思ったり、勝ってうれしいと思ったりもしました。
嘘をついて人を騙したりもしました。
騙されるやつも悪いと感じたりもしました。自分は騙されはしないと勘違いもしました。
ささやかな夢を叶えた事もありました。激しく恋愛をした事もありました。
いろいろと警察に捕まった事もありました。
ゴミを指定された日以外に出すと猫やカラスが喜ぶという事も知りました。
人込みを歩いていて、じゃまだじゃまだと思う事や、前を歩く人をとろいなぁと感じる事も
ありました。しかし、じゃまに思う人やとろいと思う人も自分が作り出しているんだなと
感じる事もありました。
空を見てるとほんとに気持ちいいなと感じる時がありました。
自分もまたそのように、社会にはとにかく色んな事を経験させてもらっているわけですが、
しかし、誤解を恐れずに言えば、そういう自分の存在感のみに根ざした生き方の中で感じる
喜びや悲しみ、辛さや苦しさというものは、必要以上にそれ以下でもそれ以上のものでも
ありません。
何をわかったふりなんかしやがって・・・・と思われるかもしれない。
しかしたとえ、これら自分の感じた事のほとんどが勘違いであったとしても、
少なくとも自ら死ななきゃならないような悲しみや苦しみ、恐怖なんてものはこの世にありません。
それらは、本当の意味での”命”に根ざした生きる喜びや悲しみ、苦しみといったものとは程遠い、
もしくは全く無縁の作りものであると確信します。
その思いは、自分があの時、落雷に遭ったあの瞬間、
自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃に由来するものです。
※
※
(※ 自分の命という表現にはとても神経を使います。ここで述べる”自分の”という表現は、
”全ての命と繋がっている”という感覚のもとでの”自分の”という意味です。
決して人間社会で言うところの”自分だけの”という感覚の意味ではありません。
~今回、色々と書き記したいことが山のようにあり過ぎて、まとめ切れない事態に陥りました。
このタイトルで延々と書き続けるのもアリなのですが・・・・・。
次を~後半②として、このタイトル記事を完結させるつもりでいますが、
書ききれなかった分は、少なくとも今後の記事に何らかの形で反映していこうと思っています。
長文・駄文、失礼!長々と貴重な時間を割いてくださり、どうもありがとうございました。
t-youha)
読ませて頂きました。切実なものが伝わってきます。そして、とても明確ですね。読んでいると勇気づけられて、生きている事が楽しくなってきますね。
>自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃
この衝撃を受けた人は、一種の悟りの境地に近い精神性のレベルアップをしていると思いますね。
仏陀とか親鸞とか、いわゆる聖人たちもこんな感触を得たのではないでしょうかね?
今回の文章は量的にも内容的にもボリュームがあるので、2回3回…10回と読み進めるたびに感想が浮かんできそうなので、またいずれ改めてお邪魔します。
ところで、t-youha さんのひとつのスタイルである、このイラストのタッチは気に入っているんですが、これは反転効果とか何かデジタル加工処理してあるのですか?リトグラフとかエッチングのようなクールな感じで素敵ですね。
by 扶侶夢 (2011-10-02 22:43)
>5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。
この物語は非常に示唆的ですね。記憶と言う判断基準を喪失したために、自分が悪人なのか、被誘拐者なのかすら分からない。ボタンを掛け違った為に、悪の街道をまっしぐらに進んでいたかもしれないのに、その記憶がない。性善説でも性悪説でもなく、人間の善悪は一体何によるのか、という哲学的な問題が提示されています。
もし、ピアノを見事に弾く以外のことが出来ないピアニストが記憶を失って、ピアノを弾けることを忘れてしまったら、彼は自分自身を社会の中で何も出来ない無能なつまらない存在と思うでしょう。しかし、彼が人のいない大自然の中にいたら、生きることに必死になり、飲み水を探し、食べ物を探し、生きながらえ、生きていること、そのこと自体を喜ぶことができるかもしれません。
by アヨアン・イゴカー (2011-10-04 00:13)
皮膚という薄皮一枚を隔てた向こう側には自分以外の全てが広がっている。
私たちが生まれてからすり込まれた知識や理屈という情報は、人間という生き物が「種の保存」ではなくて「自己の保存」のために生み出した術なのかなと思います。
自分の居場所を見失った時の恐怖・・・駅間を走行する地下鉄の中で、突然の目眩とともに「今日が何日の何曜日で、今が何時で、自分は今、何線に乗って何のために何処に向かっているのか?」混乱する・・・という状況に似ているのかなと思います。
私という個は確かに存在しているのに、その焦燥を取り除くために膨大な情報を必要とする。
「人間は死を知って死なないことへの執着を手に入れた。」
以前、自身のブログで紹介した言葉ですが、逆に「死」そのものを意識したときから、その横に寄り添う「生」も見えてくるのかなと。
そしてそのふたつは、知識や規則、理屈では決して制御できない。
自分と外界を隔てる層の厚みを出来る限り薄くして、向こうに広がる全てを堪能する・・・そんな「人の生」の楽しみ方をしていきたいものです。
by RobertCole (2011-10-05 00:14)
扶侶夢さん、こんばんは♪
>いわゆる聖人たちもこんな感触を・・・・
^^;さて、自分の事となるとどうなんでしょう・・・。僕には分かりませんが、この先の生き方にどう反映していくのか?という点につきるでのしょうね。
その事を考えれば、我々はいつでもそのような衝撃に出くわしていて、「さぁ、どうしたい?」って問われてるような気がします。そこで人は自分自身の何処らへんで何を感じ、何を選択するのかといったところでしょう。僕は、よっぽど我が強かったとんだと思います。実はその落差加減も衝撃の一部です。次に書こうと思ってますが、あの時に死んだはずの自分が今も尚、ゾンビや亡霊のように蘇って猛威を振るう時があります。まぁ、今となっては、そういう自分もなかなかカワイイやつなんですけどね^^)。
~イラストなのですが、デジタルで描く時は黒く塗りつぶした背景に線幅を変えながら白で描きつつ、黒でも描くといった具合です☆反転効果はたまに使いますね。意図した事と違う効果が出た時は、飛び上がるほどうれしくなって、その効果に付き合いながら描き進めたりもします。目をつぶって描きもします。でも実は、加工処理を意図して使う事はほとんどありません。デタラメな適当さを貫くという意図があるぐらいで・・・・と言いつつ、意図して使えないだけの話なのですが・・・^^;
by t-youha (2011-10-06 03:30)
アヨアン・イゴカーさんこんばんは!
>この物語は非常に示唆的ですね。
確かにそう言われるとそうですね。人間の善悪は一体何によるのか?この映画の作者は意図しているのかどうかは分かりません(その後の展開を描ききれなかったのか、あまり覚えてないほど普通の映画になります)が、彼等の行動に表れる姿も一つの回答のような気がしてます。
>しかし、彼が人のいない大自然の中にいたら~
このような発想、見え方、気づき方が、ほんの少しでも頭をよぎったら、きっと人生が楽に、そしてもっともっと楽しいものになるのでしょうね。
そういえば、二つの事をふと思い出しました。一つは、社会と全く関係の無いところで生きてるような、くったくのない笑顔を見せる昔の友人の事のことです。彼は多能な人間なのですが、その事に固執せず自らダメージも食らわず、生きることの喜びがにじむ笑顔の人間だったような気がします。
もう一つは、アヨアン・イゴカー さんのピアノとバッタの創作です。あのバッタは実は、奇妙な動きとは裏腹にとても多くの人を魅了する優秀なピアノ弾きで、でもバッタ本人は優秀だともダメだとも思っていない。ただ生きる喜びを奏でているだけ・・・・なのかなぁ~と。
by t-youha (2011-10-06 03:48)
RobertCole さんこんばんは☆
>私という個は確かに存在しているのに、その焦燥を取り除くために膨大な情報を必要とする。
きっと膨大な情報を取り入れても尚、定まらないワタシという存在感覚・・・・自分の居場所を見失った時の恐怖に遭遇してしまった時にこそ、今、ワタシという私を見失ったワタシは確かなのか?というところから出発する、情報無き思考も必要なのかもしれませんね。世からすり込まれてる事をすり込まれてるんだと気づく機会は、外界と切り離された場所ではなかなか気づきにくい。ですので、ふと、わき道をそれてしまうような隙間がやっぱり必要ですね。RobertCole さんにとってはファインダーが外界との橋渡し、またはわき道のような存在でしょうか☆
>「人間は死を知って死なないことへの執着を手に入れた。」
僕の世代はすでにお年寄りと共に暮らす生活というものが少なくなっていた世代です。死というものがどういうものか希薄になりがちな面があるかもしれません。ですが、死が遠いところにあるという事それ以上に、社会が押し付けてくる過剰な生への演出は、死をもっと遠くに追いやろうとしてるだけのようで、 RobertCole さんの仰る”「死」の横に寄り添う「生」”からはますます離れていってしまってるように思います。健康ブームなどを見ても、表向きには何時までも健康でいられるようにと、死なないことへの執着と見て取れますが、実際は生きることへの執着にも繋がってないような気がしてます。自分の死を忘れようとする生への演出は、自分の生をも奪うような死へ向かう演出のような気さえしてきます。おかしな話ですね。
ただ、自分の死の実感といったものは体験出来ませんので、外界で遭遇する死を見る以外にないですが、外界を通して得られる「自分は何者でもない」という実感は、唯一死を知る体験にも似ていると思います。
僕も、RobertCole さんの仰るように常に”向こう”を感じられる肌着一枚(いや裸一貫)みたいな感覚を忘れないようにしたいです。
by t-youha (2011-10-06 04:31)
こんばんは~☆
すっかり遅くなってしまって(^^;
そうですね~生まれて来た訳は形を知るためかしら♪
生きていく意味はそれがなんの意味を持つのか調べる為☆
生まれ出て皆に共通にあるのは余命・・・普通は意識しないのだろうけど
皆、また元の形に戻るわ♪
生死を彷徨いそれでも生きている人はまだ認めていないのね・・・きっと
まだあるよ・・・君の形が!って
社会なんて小さなものを見てないで地球を見て~
様々な命が必死になってるよ~ここにおいで~みたいな^^
自分が生きてると思える世界を探し歩けばいいのね^^きっと
そうすれば生きる意味なんて考えてる時間は無いわ(><)
誰もがきっと自分にあった社会がある☆
その為に神様はこんなに大きな地球をくれたのだから~♪
だから私も捜し続けるの^^そしてそれが生きると言う事だと最近少しだけ解った気がする~~けど・・・まだまだね・・・
じゃまた修行にいかなくては(><)
PS
この文章力☆尊敬いたします^^
本書いてほしいなぁ~^^
by shio (2011-10-10 21:18)
shio さん、おはよ~☆
>生まれて来た訳は形を知るためかしら♪
>君の形
素敵な表現だと思いました。
”「君の形」はこんな形なんだね”と相手が言う。
”うん、それが「私の形」なの”と素直に自分は答える。
”「あなたの形」はこうなのね”と自分の目にはそう映る。
”そうだよ、その通りだよ”と笑顔で相手が答えた・・・。
なんて感じで、「君の形」をキーワードに想像してしまいました。
そんな二人のやり取りは、なんの矛盾もなく、無理もなく、等身大の形が
お互いに見えている関係、状態とでも言いましょうか。
それは、社会の視線で見つめる目ではなく、shio さんの言うような
”社会なんて小さなものを見てないで地球を見て~”いるような
とても大きな心の目に映る”お互いの自然な姿”を言い合ってる感じ・・・
とでも言いましょうかね~^^
>誰もがきっと自分にあった社会がある☆
きっと誰もが、そんな風に地球と寄り添うような大きな心の目で相手を見、自分を見つめる事ができれば、社会の輪の中での役割というか、一つ一つの形(命)が自然に納まっていく場所が、ス~っと見えてくるものなのかも知れないなぁと思えました。
shio さんの形は、一体どんな形なんだろう?
少なくともその形は、何があってもたくましく歩いていける形でしょ☆
なにせ、地球はでかい!!!^^
あぁ・・・これからしばらくの間、出張作業に出かけます。
いや、修行にでかけます^^;自分の歩く歩幅ぐらいは大きくなって帰ってきたいなぁ・・・・
PS
shio さんのHPのトップページに登場する写真、前から思ってましたが、
とても印象的ですね。
見ている方向とか180度違うようで、でも影は一つなんですね。
でも、そのような形がどうこうと言うよりも、一瞬で何かの感覚的な印象が心に残ります。
by t-youha (2011-10-13 10:04)
走馬灯は3度ほど見ましたが
戻れる時は戻れるもんなんですよね
4度目は戻れるか解りませんけど(^^;
by (。・_・。)2k (2011-10-13 12:16)
(。・_・。)2k さん、こんばんは。
返事が遅れてしまいどうもスミマセン!
(。・_・。)2k さんは走馬灯を3度も見てるのですか・・・・?
それはまた驚きですね。そういう話を聞いたのは初めてです。
走馬灯を見る時というのは・・・・まぁ、普通に考えるなら大変な事態に陥っている状況であるのでしょうけど、それを3度も乗り越え、尚ご無事でなによりです^^!
ちなみに僕はあの時、走馬灯は見てないと思います。
by t-youha (2011-10-22 21:50)
お元気ですか~?t-youha さん。
私の場合は走馬灯の逆で、ある部分の記憶が完全に喪失されてしまいました。今はもう慣れましたが、すごく不思議な感触でした。
「自分が何者でもない感覚」を知ったからこそ感じられる「宇宙と一体となった自己の存在(価値)」…これって、簡単に言っちゃえば「悟りの境地」じゃないですか。
東洋の自我って、西洋のそれとは少し角度が違うんですよね。顕在化するんじゃなくて混在化。紛れ込むことで自我を感じるという…結構ウルトラ・テクニックみたいなところがあって…^^)
by 扶侶夢 (2011-10-25 13:43)
は~い、元気ですよ~!扶侶夢さん☆
コメントが随分と遅れてしまいました~!
ここのところずっと忙しい日々が続いてまして、寝る→仕事→寝る→仕事の繰り返しな毎日で・・・^^;
・・・でもそれは、理由にはならないのかもしれませんね。もっと激務な毎日であっても、ちゃんとブログを更新している人もいるのですから・・・。
~「悟りの境地」というと自分の場合、イメージの方が先行してしまって、
ピンとこないというのが正直なところです。あの時何を見たのか?(感じたのか)、自分の身に何が起きたのか?という事に関して、不思議なもので言葉にしようとするとその事がどんどん遠くに行ってしまうような気がします。例えば、僕はクロッキーを通して、感じているものを瞬時に描き写す試み(実験?)を楽しみながらやっていますが、”描こう”とする気持ちがあると遠く離れて違うものになってしまう・・・というような感覚と似ています。描かなければそれがあるのに描こうとするとそれがない・・・・ような感覚。。
そうそう!扶侶夢さんの知っている東洋と西洋での自我の違い(自我という認識の違い?)に大変興味があります。
>紛れ込むことで自我を感じるという
>ある部分の記憶が完全に喪失されてしまいました。
といった扶侶夢さんの不思議な体験とウルトラテクニックにも色々な角度で興味を感じます。部分的に記憶がなくなる事、記憶がなくなったことを自ら認識していること、記憶・認識・顕在・混在そして自我・・・などなど。
by t-youha (2011-10-31 09:51)
>クロッキーを通して、感じているものを瞬時に描き写す試み(実験?)
これってイイですね。紙面に表わし出すことで自分の感覚の一部をリアルの一部として確認する…とても効果的なメディテーションだと思っています。
余分なものを削り取ってコアな部分だけを抽出するという事は、現代人にとって実はものすごく難しい事に思えます。
>描かなければそれがあるのに描こうとするとそれがない・・・・ような感覚
この感覚って、多くの人が共感できるんじゃないでしょうか。見ようとしても見えないのに、目をつぶれば見えてくるモノ…客観視はできるのに自分の事として(主観)見ようとすると歪んでしまう。素直にじゃれたり遊んだり出来ていた彼女に恋愛感情を意識したとたん破局してしまう感覚…ん、ちょっと違うか?(苦笑)
…だから絵を描くことが面白いのかも知れませんね。
by 扶侶夢 (2011-10-31 13:33)
とりあえず・・・。
昨年はありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。
by RobertCole (2012-01-02 11:31)
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします!
映画、スポーツを楽しんで行きたいと思います。
by おぉ!次郎 (2012-01-02 12:19)
新年あけましておめでとうございます。
今年も、大切に生きてゆきましょう。
t-youha さんのsomething を信じています。
by 扶侶夢 (2012-01-02 18:37)
RobertCole さん、お久しぶりです。
近々、ブログを再開しようと思っております。
また色々とお話ができればと思います。
昨年と同様、宜しくお願いします。
by t-youha (2012-01-03 23:56)
おぉ!次郎さん、明けましておめでとうございます。
映画にスポーツ、大いに楽しんでください。
自分も昨年よりもっともっと色んな事を楽しもうと思っています。
今年も宜しくお願いします。
by t-youha (2012-01-03 23:58)
扶侶夢さん、お久しぶりです。
変なところで間を空けてしまいました。
そのままズルズルと・・・長すぎてしまいましたね。
近々、ブログを再開しようと思っております。
by t-youha (2012-01-03 23:59)
どうしてますか?t-youha さん。
元気にしてますか?
t-youha さんのアートを味わいたいです。^^)
by 扶侶夢 (2012-11-12 19:58)